Femme  Fatale





 美しい舞台だった。


 煌びやかな衣装に照明。女優や俳優も有名なそればかりだ。人気があるというのは事実だろう。これだけ金と手間をかけて宣伝も大仰にしているのだから人気がないほうがおかしい、という作りではあるが、ともかく人気のある理由は分かった気がするな、とぼんやりと思った。
 そんなことを思っている内に場面はクライマックスになったらしい。主演の女優が妖艶に微笑み、差し出された張りぼての生首にキスをする。
 舞台は静まりかえり、そして幕が閉じた。それから歓声の嵐。つまりこれでこの舞台は終了らしい。
 やがて再び幕が上がり、皆が拍手で女優達を迎える。それはエドワードの隣に座る男も同じだったし、一応礼儀だから、とエドワードもそれにならった。
「どうかね?」
 感想を聞かれて困惑した。この手のものが得意でないことくらい、とっくに承知しているだろうに。
 ちら、と質問の主に視線を送る。年齢の割に落ち着きすぎた雰囲気と容姿を持った男は、穏やかな微笑を口元に称えていた。
「別に。……綺麗な舞台だな」
「そうだね。実に幻想的に良く作ってある。評判通りの美しい舞台だった」
 頷き、同意を示す。満足そうに男は笑った。
 そう、本当に綺麗で、美しい舞台だった。恐ろしく、美しい女が恋した男の首を欲する、そんな残忍なストーリーには不釣り合いな程。それとも、だからこそ美しい舞台は相応しいのだろうか。エドワードには良くわからない。
 美しい舞台だった。それは確かだ。けれど、美しいだけの舞台だった、とエドワードは思う。生死を扱っているのに、まるで死の匂いがしない。ただ煌びやかで、鮮やかで、美しい。
 そう思うのは、自分の知る死があまりにも痛ましく、疎ましく、切なく思うものばかりだったからかもしれない。二十年近く生きてきた中で、エドワードは老衰による死ではなく、それ以外ばかりを見てきた。
 もっとも、ここ数年は随分と穏やかな生活が続いている。自分には不似合いな程に。
「さて、そろそろ行こうか」
 言われて、小さく頷き席を立ち上がる。いつの間にか周囲に人間はほとんどいなくなっていた。先ほどはどこを見回しても人で埋まっていたのに、今はしん、と静まりかえっている。
「食事はどこが良いかな」
 優しい口調で尋ねられるのは少し苦手だ。こんな風に優しくされることにエドワードは慣れていない。この男は知り合ったときからこんな風で、つまりそろそろ慣れるべきだ、と思うのに、慣れることができない。
「どこでも。あんたの好きなとこにすれば良い」
 ぶっきらぼうに言うとそうかね、と男は笑う。いつでも彼は大抵、笑っている。とても穏和な男だった。
 ただし、仕事になれば話は別だ。厳しい表情を作り、真剣な眼差しで自分の世界を作り上げる。それは確かに芸術だった。未だに演劇の世界はわからないが、この男は確かに天才なのだ、ということだけはわかっている。
 男の名をフリッツ・ラングという。職業は映画監督。去年まではドイツにいたが、現在はアメリカに滞在している。そしてそれはエドワードも同じだった。
 出会いは偶然だった。エドワードが彼を見かけた。全てはそこから始まった。
 彼はエドワードの知るある男に――――故郷の最高権力者に、あまりにも酷似していた。今でも、彼を見ているとどきりとする瞬間がある。怜悧で非道で残酷な、あの男を思い出す。
 正直なところ、故郷のあの男のことをエドワードはあまり良く知らない。知っているのは隻眼であったこと、そして人間の姿をした人間ではなかったこと。自分の後見人だった男に殺されたこと。その程度だ。気安く話をするような相手ではなかった。それでも、時々逢えば声をかけられた。優しい声と笑顔を、自分に見せた。
 それが偽りだったのか、それともそうではなかったのか。今のエドワードに知る術はない。もう、あの男は存在しない。どこにも。目の前にいるラングはあの男に酷似した、赤の他人でしかなかった。
「どうかしたかね?」
「別に」
「そうか。なら良いが」
 答えると、穏やかなまま彼は頷く。天才の名を欲しいままにする男が、自分にやたらと気を遣う。何故なのか、と問えば、『君が気に入ったからだよ』と良くわからない答えが返ってきた。
 エドワードは現在、ラングの秘書をしている。是非に、と乞われ、色々恩もあったから断れなかった。彼のおかげで弟ととりあえず不自由のない暮らしをすることができたし、そもそも戸籍を持たない自分たちがパスポートを手にすることができたのもこの男のおかげだ。何より、彼はエドワード達が望む情報をどこからか仕入れてくれた。
 ――――自分たちが探す『ウラニウム』の行方を。
 おかげで探しだし、そして消滅させることができた今、ラングの言葉を断る理由もなかった。もう旅を続ける必要もない。その旅の資金も、結局の所、『出世払い』の名目でラングから渡されたものだった。どのみち、彼の元で働くのならばそれが秘書だろうが、ただの下働きだろうが根本は同じだろう。
 今のところ、仕事は順調だ、と言って良い。慣れないからどうしても手間取るし、向いているとはあまり思えないが、それでもどうにかこなしている。
 そうして、今日の歌劇見物も仕事の一環だった。ラングの仕事を思えば、そう不思議でもない。
 そうして運転手兼荷物持ちとして自分がいるのもまた、当然なのだろう、と思う。
 けれど考えてみれば、その後の夕食まで供にする必要はあるのだろうか。昼はともかく、最近は夕食を供にすることが多いから深くは考えなかったが、本来はここで解散しても良いだろうに。
 そう思ったが、ラングは上機嫌でどこが良いかあれこれと考えている様子だ。そんな男を見ていれば、まぁいいか、という気がしてくる。大人の男であるくせに、ラングはときどき、ひどく子どもじみていた。きっと自分がここで去ろうとすればすねるに違いない。
「あぁ、あそこにしよう。きっと夜景が綺麗だ」
 示されたのは、高級ホテルの上階だった。そこにレストランがあるのか、それとも泊まってルームサービスにしよう、と言っているのか。男の我が儘には慣れているから、深くは考えず良いぜ、と答えた。
 ちら、と腕時計を見る。まだ、食事をしたあとすぐにホテルを出れば自宅に戻れるはずだ。最近は会話ができる時間は減ったが、それでも帰らなければアルフォンスが心配するだろう。
「時間が気になるかね?」
「そりゃ気になるだろ。最近はあんたに扱き使われてて、早い時間に自宅に戻れた試しがねぇっての」
 本来は許されないだろう暴言に男が怒ることはない。それはすまないね、とすまして答えるだけだった。
 実際問題、それも仕方のないことだと理解している。男はそれなりに以上に多忙だった。つられてエドワードもまた、多忙になるのは当然のことだ。その代わり、相場を良くは知らないが、おそらく自分の給料が良い方だ、という事も一応理解している。だからそれは文句と言うよりも戯れ言に近かった。
「私としても、君と長い休日を楽しめたらと思うんだがね」
 男の言葉にエドワードは笑う。結局の所、この男はどうしようもない仕事中毒人間だ。長い休日など持て余すだけだろうに。
「あんたが長い休日を楽しめるとは思えねぇな」
「楽しめるとも。君が側にいるのならね」
 穏やかな微笑をたたえたままの表情で、さらりと告げる台詞は甘い。まるで彼の映画の俳優が、主演女優にささやきかけるかのようだ。
「だが、今は腹ごしらえの方が先だな。急ぐとしよう」
 その言葉にエドワードも頷く。ようやく、今日も忙しい一日が終わろうとしていた。

◇ ■ ◇
 
 その部屋は確かに絶景だった。
 窓から外を見下ろすと、そのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚を起こす。暗闇に街の灯りが良く栄えていた。まるで宝石のようだと陳腐な感想を思い浮かべる。
 しばらくぼんやりと外を眺めていたが、やがて夜景に酔いそうな気がして見ることをやめ、食事に専念することにした。
 ちら、と男を見れば上機嫌で食事を楽しんでいる様子だ。確かに、高級ホテルだけあってルームサービスの食事も質が良い。素直に美味いと言える料理ばかりだった。おそらく最上級の素材ばかりを使用しているのだろう。
 無論、最上級なのは食事だけではない。結局、彼が選んだ場所は最上階のスウィートルームだった。おかげで、部屋の内装もエドワードにはなじめないほど実に豪奢だ。旅暮らしが長いとはいえ、エドワードが泊まっていたのはいつでも安宿ばかりだったから、なんとなく違和感がある。だが、男にとっては分相応の部屋、ということになるのだろう。
「ところで、今日の舞台では誰が一番目を引いたかな」
 不意に尋ねられ、返答に詰まる。どうしてこう、エドワードがその手の話題を苦手と知っているのにこの男は尋ねてくるのだろう。
「順当に言えば主役の女だろ。声の伸びが良かったし、見栄えも良い」
 一般的としか言えない、凡庸な返事をエドワードが告げるとそうだね、とラングは妙に含みを持って頷く。
「確かに彼女は美しいし、声も良い。役所も彼女の得意とする分野だったから、彼女の魅力が十二分に発揮されていたね」
 逆に言えばあの役柄あってこそ、と言いたいのだろう。(相応しい役をやれば当然の結果、ってことか)
 先ほどの演劇を思い出してみたが、所詮エドワードは素人だ。女優の細かい演技ではなく、ストーリーを追う方が忙しかった。
「今回の『サロメ』は彼女の代表作になるのは間違いないだろうね」
 言われて、そういえばそんなタイトルだったな、とぼんやりと思う。ヒロインの名が『サロメ』だった。エドワードにしてみれば歪んだ恋心で惹かれた相手の首を求める女が魅力的とは思えないが、一般的に受けが良いのは間違いないようだ。今日も確かに、客席は満員だった。
「君はあまり、好みではないようだが」
 表情にでていたのだろう。何故か上機嫌で言われた台詞に少しばかり赤面した。
「綺麗だ、とは言ったがすばらしい、とも、面白い、とも気に入った、とも言わなかった。君は正直だな」
「仕方ねぇだろ。好みなんて千差万別だ」
 肩を竦めて正直に告げた。だいたい、最初から恋愛話に興味がない。自分一人ならば、チケットを渡されたところで行かない可能性の方が高かった。
「私は嫌いではないんだがね。君は『ファム・ファタル』という言葉を聞いたことはあるかな」
 尋ねられ、一瞬考えたが思い浮かばない。だからあっさり、きっぱりと答えた。
「ねぇな」
「フランス語で『運命の女』という意味だそうだよ。転じて、破滅を導く魔性の女、とでも言ったところだ」
 ならば、知らなくて当然だな、とエドワードは思う。フランス語は理解範疇外だ。もしかしたら一度くらいは聞いたこともあるのかもしれないが、忘却の彼方だった。
(魔性の女、か)
 思い浮かべるのは幾人かの女の顔だ。母に酷似した、否、その昔は確かに母であった女。どこまでも妖艶で、そして人間になりたがった女。父を愛し、幾人もの身体を乗っ取り、長年生き続けた女。
 そのどれも、確かに魔性と言えば魔性だったのかも知れない。当たり前だ。どの女達も真実の意味で『人間』ではなかったのだから。
「男は誰もが己自身のファム・ファタルを待っていると、私は思うよ」
「あんたはロマンチストだからな。けど、悪いけどオレは待ってないぜ。破滅を導く女なんか」
 というより、明らかにそんな存在を待たない男の方が多いはずだ。わざわざ破滅したい人間など、そうそういるとは思えない。そう告げると、ラングは笑う。
「それはそうだろう。君は導く側だ」
 にっこり、と。笑顔のまま告げられて思わず固まった。
「……は?」
「私にとってのファム・ファタルは君だからね」
 迷いのない口調。笑えない冗談だろうか、とも思ったが、この表情からしてそうではないらしい。つまり彼は本気で言っている、ということになる。
「オレ、男だけど」
「無論、知っているとも」
「……なのになんでオレが運命の女、なんだよ」
 明らかに間違っている。いくらなんでも初歩的ミスどころの問題ではなかった。
「例え話だよ。私にとって、君は運命の女に等しい。君が得られるのならば破滅しても良い、という哀れな男の心情を訴えたかったんだが」
「オレはあんたの生首にキスする趣味なんてねぇぞ」
 自然、声が低くなる。己の破滅を呼ぶ女がファム・ファタルというのなら、先ほどのサロメも相手の男にしてみればファム・ファタルだろう。
「私としても、生首よりは胴体が繋がった状態の方が嬉しいと思うよ」
 ここに来て、ようやく気付いた。どうやら自分はこの男に口説かれているらしい。それもおそらく、かなり熱烈に、だ。
 正直なところ、思い返せば心当たりがなくもない。冗談交じりに愛を語られたことは今まで何度かあった。ただ、エドワードが本気にしなかっただけだ。……あるいは、本気にしないふりをしていた。そしてそれを、この男は許していた。――――今までは。
 そう、今までは一度も、男はその答えを求められたことはなかった。
 だからエドワードは答えなかった。答えなくて良いと、そう思っていたし信じていたかった。
 男はいつでも鷹揚に、優しく微笑んでいた。それだけで良かったし、それ以上を望むつもりもなかった。今の関係でエドワードは確かに満足していた。否、今の状況こそ、最もエドワードが望むものだった、と言うべきかも知れない。
 だというのに、何故この男は突如、自分にこんな現実を突きつけるのだろう。
「もう一度言うけど、オレは男だ」
「知っているとも」
 事実を告げても、頷かれるばかり。それがどうした、とでも言わんばかりだ。もっとも、エドワードが男であることは見れば誰でも分かることだ。わざわざ本人が告げる必要などあるはずもない。
 普段一緒に行動しているラングならば、それこそ今更、としか言えないだろう。
「……あんた、男色家じゃないはずだろ。もう離婚したとはいえ、奥さんいたんだしさ」
「そうだな。確かに、私は既婚者だった。女性を愛し、結婚したよ」
 だが、と彼は笑顔で言葉を続けた。相変わらず口調も表情も穏やかなのに、口を挟ませない何かがある。
「私は君に惹かれた。初めて逢ったときから、目が離せない存在だった。性別など関係なく、君は確かに私にとってのファム・ファタルなのだよ」
「勝手に人を破滅を呼ぶ人間に見立てるなっての」
 ため息をついた。自分はこの男が嫌いではない。そして、これからも嫌いにはなれないだろう。
 惹かれた、と言われたところで、当然嫌悪もない。実のところ、同性からその手の意味で好かれること自体にも嫌悪はなかった。あちらの世界では珍しいことではなかったし、自分自身、同性に惹かれた記憶もある。
 そうして、この男は確かに魅力的だった。演劇や映画のことは良くわからないが、それでもこの男は天才なのだ、とエドワードでもわかる。性格もかなり良い部類だし、上司としても特に文句はない。早い話、どうしようもない欠点は思い浮かばない相手だった。大抵の人間は、意味合いはそれぞれだろうが、彼を知ればそれこそ『惹かれる』のではないだろうか。――――そして無論、自分も例外ではなかった。
 そうでなければ、そもそも恩を素直に受ける気にはならないし、乞われたところで自分に向いているとも思えない仕事を引き受けるはずもない。
 その程度には、エドワードは自分を知っている。嫌いな人間ならば、こんなにも長時間、自ら側にいるはずがなかった。
「ならば、破滅ではなく栄華を私に与えてくれるかね?」
「無茶言うな」
 自分は自分でしかない。自分が破滅を呼ぶこともなければ、栄華を招くこともない。無論、自分にできることはそれなりに力を尽くすつもりではいるが、その結果などエドワードには知るよしもなかった。
「けど、オレはあんたの作る映画は嫌いじゃない。ただ綺麗なだけだとも思わない。あんたが栄華を誇るなら、それはあんたの実力だ」
 言うと、余程驚いたらしい。目を丸くしてラングが自分を見ていた。
「君がそんなに私を褒めてくれるとは珍しい」
「おだてると調子に乗るからな、あんたは」
 気恥ずかしい気分になって、横を向く。そこには夜の街が広がっていた。
 暗く、明るく。生命力に溢れ、雑然とした街。故郷とはあまりにも違う、けれど今、確かに自分が生きている街。彼と供に生きることを選択したから、自分はここにいる。
 この感情が恋なのか、正直なところわからない。彼は自分に対して『惹かれている』と言った。自分も、確かにこの男に惹かれているのだろう、とは思う。ただしそれは、彼に酷似した男、――――キング・ブラッドレイに対する憧憬に似た畏怖も含まれている。孤高であり、戦神のようでもあり、そしてどこまでも遠かった、最高権力者への。
 あの男に恋していた、とは思わない。それは恋とは呼べない感情だった。
 だが、確かにあの男は自分に君臨していた。或いは、今も。
「この場で、そんなにも君が私を褒めてくれると言うことは、可能性はあると見て良いのかね?」
「んなこと、聞くな」
 聞かれても答えられない。だって自分はわからない。当然ながら、運命だ、などと言われたことなどなかったし、想定したこともない。
 静かに男が立ち上がった。その気配に気付き、エドワードは彼の方向へと視線を送る。そっと手が頬に触れた。優しく、暖かな手だった。夢という名の映画を織りなす、無骨で大きな手。
「私を拒むつもりがあるのなら、そんな無防備な表情を浮かべないでくれないかね」
 苦笑を浮かべて様子で告げられたが、ただ触れられただけだ。嫌悪はやはりなく、ただ、優しい掌だなと思った。この男に相応しい、そんな手だ。
 男は頬を撫で、そのまま耳に触れた。少しだけくすぐったいと思ったが、不快ではないから放っていると、今度は唇に触れる。形を確かめるかのようにラングの指がエドワードの唇を何度も撫でた。
「撫でて楽しいか?」
「楽しいが、物足りないな。恋する男は欲張りなものだからね。こうして触れているともっと深く触れたくなる」
 口調は柔らかいのに、目つきはどこか獰猛だった。
 その台詞に嘘は見つけられない。視線も、声音も本音だと告げるばかり。困ったな、と思った。自分はこの男が嫌いではなく、そしてこの男は自分を望んでいる。
 掌が首を伝い、やがて第一ボタンに触れた。指が動き、外されたのが分かる。
「了承と受け取っても良いのかね?」
 もっと触れても良いのか、と彼は聞く。頷けば、おそらく今夜この部屋から出ることはないだろう。それくらいは分かっている。
「……オレは、あんたに恋してるかわからねぇ」
「だが少なくとも私を嫌ってはない」
 その通りだ。浅く頷いた。すると男は笑う。どこまでも、鷹揚でいて、自信に満ちた笑顔だった。
「ならば問題ない。君は私にゆっくりと恋をすればいい。そうして私だけのファム・ファタルでいておくれ」
(だから、オレは女じゃねーし、破滅を呼ぶつもりもねぇっての)
 そう思ったが、口に出すことはしなかった。そんなことくらい、ラングもとうに承知している。ただ、それほどまでに惹かれていると、自分に滅ぼされても良いと。そう重ねて告げているだけのことだ。
(まぁ、仕方ねぇかな)
 この男がそんなにも望むのなら、願いを叶えても良いか、と思う自分がいる。自分に触れたいなら触れれば良い、と。そんな風に。
 恋なのか、わからなくて良いと男は笑う。
 これからすれば良いのだ、と。それはなんと傲慢な台詞だろう。けれど、それだけの自信が男にはあるのだろうし、あり得ないと否定する気もなかった。
 自分がこの男に、恋ではないとしても惹かれているのは事実。
 それが恋に変わらないと誰が断言できるだろう。そこにあるのは、ひどく曖昧な境界線だけだ。
 やがて、己の唇と彼の唇が重なった。触れるだけの、ささやかなそれ。すぐに唇は離れたが、彼の顔は至近距離に存在したままだ。
「続けても?」
「恋はゆっくりすれば良いって言う割りに、随分性急なんだな。あんたはもっと気が長いと思ってた」
「君が魅力的な証拠だよ」
 歯が浮きそうな台詞に苦笑する。今まで、どこかの女優にでも告げていた台詞かもしれない。映画のような甘い口説き文句。だとしたら、この夜も映画のように、夢のようなものかもしれない。
 だが、夢でも良い。今は恋ではないかも知れない。けれど、きっと自分はこの男に恋をするんだろう。考えるまでもなかった。きっと自分は、最初からそのことを心のどこかで知っていた。
 だから口を開く。後悔はきっとしないだろう。そんな気がした。
「いいぜ」

◇ ■ ◇

 ベッドが小さく鳴った。高級なベッドでも、音を立てるんだな、とぼんやりとエドワードは思う。全裸で脚を広げた状態だというのに、我ながら妙に冷静だった。
「ぁ、――んっ」
 男が首筋を執拗に吸う。ちり、と軽い痛みを感じた。
「バカ、痕が残る……っ!」
「無論、残したいのだよ。私が君を得た、と示すために」
 その台詞で、わざとなのだと知る。痛みを感じたのは衣服では隠れない部分だ。下手に隠そうとすれば、その方が余程わざとらしいだろう。
「このっ、――――っ、ぁ……っ」
 文句を言おうとしたが、彼の指がエドワードの内部を掻き回した。その衝撃に言葉はかき消え、自分でも驚くほど甘い声が漏れる。
すでに彼の指を迎え入れてから、それなりの時間が経過していた。とうに自分の内部は彼の指を覚え、そして愉悦を覚えている。
「そろそろ、大丈夫そうかね?」
「そーいうこと、聞くな……っ」
 大丈夫なのかそうではないのか、聞きたいのは自分の方だ。妙に身体が熱く、自分が自分ではないようだった。
 艶ごとにはあまり慣れていないから、どうすれば良いのか良くわからない。男が促すままに脚を大きく開き、秘められた場所を晒すことに羞恥を感じたが、今はそれよりももどかしさに似た何かが自分を苛んでいた。 
「聞かれても、わか、……ねっ……っ、あんた、が、好きな、よう、――っ」
 聞かれてもわからない。だから、あんたが好きなようにすれば良い。
 そう告げたかったのに、言葉にすらない。だが、理解したのだろう。男がゆっくりとエドワードの内部へと入り込んでいく。それは灼熱に似ていた。
「ぁ、ぁああ、――ぁ、っ、あぁ、あ……っ!」
 その重量と熱に、声をあげずにはいられない。苦しいのに、どこか心地良いとも思った。どうしようもなく不可解な感覚。あとは夢中だった。冷静さは完全になりを潜め、我を忘れて本能に流される。それはあまりにも強烈で、そして鮮烈な時間だった。

◇ ■ ◇

「しまった、アルに連絡してねぇ」
 不意に思い出して呟く。望んで流されたのは良いが、すっかり失念していた。
 ちら、と時計を見る。先ほどまでうたた寝をしてたから、すでに夜中と言って良い時間になっていた。
「そういえば、彼にも許しを得ないといけないかな」
「許しって、なんのだよ?」
 きょとんとして尋ねると、ラングは上機嫌で言った。
「無論、君との交際をだよ。君の大事な肉親だからね」
「……普通に考えて、大反対すると思うぜ」
 泣くか嘆くか、それともため息をつくか。もしかしたら反対せず、諦めるかも知れない。弟は昔から聡かった。反対してもどうにもならないと悟れば仕方ない、と思うかも知れない。
「それは困ったな。だが私は君が居なければ生きていけない」
「そのどーしようもなく芝居がかった台詞言うの、どうにかしやがれ」
 うまく表現できないが、なんというか心が痒い。しかし、この男の場合本気らしいのだから質が悪かった。
 そしてそんな男を、とりあえず自分は選んでしまったのだから、更に質が悪い。しかも考えてみれば、もしかしてこの男、最初から自分と今日はこうなるつもりでこの場所を選んだのだろうか。
(まさかな)
 心の中で否定してみたが、真実は闇の中だ。今、ラングに問うことは簡単だが、否定されても本当だろうか、と疑わずにはいられないだろう。
 だが、どちらにしろこの部屋に自分がいることもまた、自身の選択だった。
 レストランではなく、この部屋で食事を、と言われたときも自分は頷いた。彼に絡め取られたとしても、それは自らの決断の結果だ。
 彼は自分をファム・ファタルだ、と。運命の女だと言うが、それならば自分にとって、運命の男がいるとすれば、それは目の前の、この男なのかも知れない。
 まだ今はわからない。けれどいつか、そうなる日が本当に来るのかも知れなかった。
(ま、来るにしても当分先だろうけどな)
 しかしとりあえず、彼と肉体関係を持ったことに躊躇いは驚くほどなかった。求められたから与えた。そして自分も男を手に入れた。つまりはそれだけのことだった。
 だが、今まではそれこそ戯れ言のようにしか愛を囁くことがなく、悠長に構えていた男が、突如性急に自分を求めたのは何故だったのだろう。
 少しばかり怠い身体を騙しつつ、半身を起こしながらその疑問を口にすると、ばつが悪そうに男は言った。
「君は私以外の人間にとっても魅力的らしいと知ってね。少しばかり焦ったのだよ」
「なんだそりゃ」
 ぽかんとして彼を見ると、ラングはいつの間にかガウンを羽織り、ワインを口にしていた。
「今日の主演女優は君のファンなのだそうだ。いつだったか、撮影所にいる君を見て興味を持ったそうだよ。他にも、君を見ている人間は多いらしい」
 まさかとは思うが、もしかして、だからこそ少しばかり主演女優に対して辛口評価だったのだろうか。いや、まさかさすがにそこまで私情は挟まないだろう。たぶん、きっと。おそらくは。
「まぁ、当然だろうがね。君は美しい」
「……んなことを思うのも言うのもてめぇだけだ」
 間違いなく、恋の欲目だろう。だいたい、男に美しいも何もあったものではない。
「自覚がないのはもったいないが、自分を知りすぎて私以外の男を誑かされても困るし、どうしたものかな」
「ばぁか。誰が誑かすか」
あまりにもどうしようもない苦悩を口にする男に思わず吹き出すが、男は真面目な表情を浮かべている。どうやら本気のようだ。
「ならば、約束してもらっても良いかな。私だけのファム・ファタルでいてくれると」
 結局、最後の最後まで自分は『運命の女』扱いだ。どうしようもなくロマンチストで頑固な男。自分の選んだ男。自分が絡め取ったのか、それともその逆なのか。そんなことはどうでも良い。
 エドワードはただ微笑を浮かべる。男が息を飲んだ。その意味も、今はどうでも良い。男の唇を受け入れるために目を閉じる。長い夜は始まったばかりだった。

END