G A T E


 どこに向かっているのだろう。
 思い浮かんだのは、そんな単純な疑問だった。ついてくるようにと言われ、黙って従ったがだんだん不安にも似た感覚が育っていく。
 目の前の男は早歩きと言って差し支えない速度で前へ前へと進んで行く。本当に、彼はどこへ向かっているのだろう。自分をどこへ連れて行くつもりなのだろう。
「大佐」
 やがてその疑問に耐えきれなくなり、男を呼んだ。何事かと言いたげに視線を寄越す。漆黒の瞳。
「どこに行くんだよ」
 尋ねると、あぁ、と彼は口元だけに笑みを浮かべる。少し表情が軟らかくなったが、油断はできない。
「私の住まいだよ」
「……大佐の家ぇ?」
 返ってきた返答に唖然とした。この男と知り合って数年経つが、家へ招かれたことなど一度もない。第一、そこまで親しい間柄ではなかった。
 確かに彼は、……ロイ・マスタングは自分の後見人だ。彼の後押しがあったから国家錬金術師の試験を受けることもできた。その点は一応感謝しているが、逆に言えばそれだけの関係だった。それなのに、何故突然自分を招こうというのか。
「家、と言っても未だに引っ越しの荷物もそのままの乱雑な部屋だがね。とても女性は呼べない有様だな」
「あっそ」
 それはそうだろうな、と思う。この男が整理整頓が得意とはあまり思えない。だが、問題はそこではなく。
「なんで大佐の家に行くんだよ?」
「ホテルが君の希望なら、ホテルにしても良いが」
 つまりどうやら、自分たちの向かう場所はホテルとロイの自宅、その二択であるらしい。
(けど、なんでホテルと大佐の家?)
 さっぱり訳がわからない、と顔に書いてあったのだろう。ロイは面倒そうに口を開いた。
「私の欲しい物をくれる、と言ったのは君だろう」
「そりゃ、言ったけど」
 言った。それは確かに、言った。と、言うことは渡す場所がホテルかロイの自宅でなくてはならない、ということだろうか。だが、自分は未だにロイが何を欲しがっているのか知らないし、当然購入してもいない。
 きょろ、と周囲を見回したが、すでに大分夜遅い時間だ。人気はあまりなかった。当然、店も酒場などを除けばやっていない。今から購入することも不可能だろう。
(何かを錬成しろってことかな)
 それが妥当な線であるような気がする。そもそも、金銭で購入できる物ならば、欲しいと思えばロイ自身が迷わず購入しているだろう。
国家錬金術師である自分は確かに潤沢な資金を得ているが、ロイも国家錬金術師である上に、役職が大佐なのだから当然だ。
 やがて、外観はそれなりの建物を彼が指さす。リゼンブールのこじんまりとした家々に比べれば豪邸、としか言いようのない家だ。否、家というより屋敷とか館と言うべきかも知れない。
「あれが大佐の家かよ。でっけぇ」
 思わず感心して呟く。だが、今彼はおそらく一人暮らしのはずだろう。だとすれば、広すぎる、と言うべきかも知れない。掃除をするだけでも気が遠くなりそうだな、と頭の片隅で思った。
(けどまぁ、もうすぐ大佐も結婚するんだもんな)
 やがてそんな結論が導き出され、一人納得した。結婚すれば、家の整理は名家の令嬢という奥方か、そうでなければ使用人がするのだろう。もっとも、そのあたりのことはいまいちエドワードには想像がつかないが。
(……大佐が結婚、かぁ)
 聞いた時から、ただ驚いただけではなくひどく不可思議な気持ちになる。それがどうしてなのかは自分でも未だに良く分からない。
 それでも、一般的に喜ぶべき事であることは確かだ。あまり快く思っている相手ではないが、それでもおめでとう、と言うのが筋だろう。年齢から考えても、地位から考えても今まで未婚であったことが寧ろ不思議な程だ。
 そんな事を考えていると、やがて目的の場所に到着する。思わずその屋敷を見上げて、なんとなくため息をついた。人気のないせいだろうか。やけに陰鬱な印象だった。
 ロイが鍵穴に鍵を差し入れ、くるりと回す。それはごく自然な動作だったが、かちりと小さな音が聞こえたとき、何故か身体が竦んだ。
 ぎぃ、と少し重い音を立てて扉が開く。
「入りなさい」
 促されたが、足が動かない。動きたくない。
「鋼の?」
 訝しそうなロイの声音。だが、やはり動けなかった。
 これは恐怖だ。
(どう、して)
 何がそんなに、自分は怖いのだろう。前へ進めなくなるほど。
「鋼の」
 もう一度、ロイが自分を呼んだ。笑いを含んだ声が癪に触る。下に向けていた視線を上げると、ロイは落ち着き払った表情で笑みを浮かべている。
「どうした?」
「なんでも、ない」
 それがくやしくて、懸命に通常通りを装った。怖くなどない。何を怖がる必要があるだろう。ただ、ロイの家へと足を踏み入れるだけだ。そして彼の望みを少し、叶えるだけ。
 そう自分に言い聞かせてみても、やはり足は動かない。
「大佐」
 少し迷ってから、ロイを呼ぶ。彼はただ微笑み、視線を寄越した。
「……あんたが欲しいものって、何だよ?」
 口の中がからからに渇いた。けれど、もし可能ならばこの屋敷に入りたくなかった。錬成物によってはこの場所で十分可能なはずだ。
「随分、今更の問いだな。てっきり理解してくれていると思ったが」
「わからねぇから聞いてんだろっ!」
 肩を大仰に竦めながらの台詞に、自棄気味に怒鳴った。
「君だよ」
 あっさりと、ロイは言った。あまりにも素っ気なく。
「あ?」
「君だよ、鋼の。君の身体、と言った方がわかりやすいのかな」
 目は笑っていなかったが、口元は確かに笑みの形に曲げられている。
「……意味、わかんねぇっての」
 小さく呟くように言葉を返す。けれど、それは半分嘘だった。想像はつく。だが、そんなことがあるはずがない。きっと自分をからかっているのだろう。この男はいつも悪ふざけをする。
(からかいやがって)
 これから結婚する男が、どうして自分の身体を欲しがる必要があるだろう。あまりにも質の悪い冗談としか言いようがなかった。
「そうか。それは困ったな」
 少しも困った様子を見せず、ロイは素早くエドワードの腕を掴んだ。まるで逃しはしない、とでも言うように。
「大佐?」
 その力強さに眉根を寄せた。随分と乱暴なその仕草。一体なんだと言うのだろう。
「悪いが、私は焦らすのは好きだが、焦らされるのは好きじゃないんだ」
「ぅわ……っ」
 身勝手な言葉を告げて、ロイは強引に腕を引く。抵抗することも忘れて玄関へと引きずり込まれた。バランスを崩しかけたが、どうにか転ばずにすんだのは自分の運動神経の良さ故だろう。
 小さな安堵を胸に抱いた瞬間、その背後でばたんと大きな音をたてて扉が閉まった。途端、何かが断絶されたような、そんな錯覚を覚える。
 扉を呆然と見つめ、それからドアノブに手を触れようとする。その気になれば、すぐに再び扉は開くはずだ。何も怖いはずがない。
 だが、エドワードがドアノブに触れる前にロイがいかにも当然、とばかりにかちゃり、と鍵を閉める。
「行くぞ」
 短く言って、エドワードの腕を引いて彼は歩き出す。どこに向かう気なのだろうと思った。
(まさか、寝室とか?)
 先ほどのロイの台詞を思い出せば、それが一番妥当であるように思える。冷や汗が背中を伝ったのがわかった。
(けど、そんなことあるはずねぇし)
 そう、あるはずがない。あるはずがないけれど、歩きたくない。この場所に、自分は足を踏み入れるべきではなかった。
 戻りたい。戻れない。

 怖い。

(まさか、……本気じゃ、ないよな?)
 ロイが自分の身体を、欲しいなどと。そんなこと、あるはずがない。自分は男だ。それも、片腕と片足が機械鎧。欠点だらけと言って良い。自分が絶世の美少年というならばまた話は別かも知れないが、そこまでの美貌を誇っているわけでもない。
 だからあり得ない。あり得るはずがない。
 彼は結婚する。自分をからかっている。それだけだ。
 そうに違いない。
 何度も何度も、自分に言い聞かせる。恐怖も気のせいだと思い込んだ。
 逃げる、という選択は欠片も思いうかばなかった。自分が怖がる理由などないはずだ。だから怖くない。だから逃げる理由もない。
 自分は自分の成すべき事をしたら、アルフォンスの元へ戻るだけだ。今もホテルで自分の帰りを待っているだろう、弟の元に。
 廊下を進み、階段を上る。そして二歩ほど進むと、ロイは歩みを止めた。細長い大人の手がドアノブを掴むのを、何故かエドワードは怖い、とまた思った。
(なん、で……っ)
 どうして、たったそれだけの事が怖いと思うのか。
 否。
 もう、分かっている。自分はロイが扉を開くのが怖い。自分をドアの内側へと誘うのが、怖い。
 それは自分を連れ去る手だ。だから恐怖する。
(違う、違う、違うっ。怖くなんか、ねぇ……っ)
 頑なにエドワードはそれでも自分に嘘をついた。そんな事実を認めたくはなかった。
 怖くなどない。だから、自分は平気だ。何も恐れていない。だってロイは、自分をからかっている、ただそれだけなのだから。
 ゆっくりと扉は開かれ、部屋の内部が少しばかり見える。真っ白なシーツが映り、そこは寝室なのだと理解した。
「大佐、あの」
 悪い冗談はいい加減にしろ、と。そう言いたくて、けれど言えない。言う前にロイは無言のまま、再度エドワードの手を無理矢理引いた。その部屋へと招き入れるのではなく。引きずりこむように。
 乱暴なその仕草に驚いている間に、扉は再び閉まってしまった。その音に、身体が竦む。
 その部屋には広い窓と、大きなベッド、それにサイドテーブルだけが存在していた。いかにも眠るためだけに存在する、そんな部屋。
「からかうのも、いーかげんにしろよ……っ!」
 俯いて怒鳴る。だが、その声はどこか勢いがないことが自分でも分かった。虚勢を張っていることを目の前の男も気付いているかも知れない。
「結婚する癖に、こんな質の悪い冗談……!」
 無論、それは自分が男だからこそできる冗談だろうが、それにしても趣味が悪すぎる。自分が女だったならば、悪い噂どころではすまないに違いない。
「からかってもいないし、冗談を言った記憶も私は全くないのだがね」
 涼しげな表情でロイは微笑む。大人びた、余裕のある笑顔。それがたまらなく悔しい。いつでも、彼は大人で。自分は子どもでしかなくて。
 けれどだからといって、こんな風にからかわれるいわれなどないはずだ。
「君が欲しいものをくれると言った。だからありがたく受け取るだけだよ」
「そんなん無効だ無効!」
 いつまでこの男は自分をからかうつもりなのか。言い捨てて、くるりと踵を返す。帰ろう、と思った。
 否、帰りたいと願ったのかも知れない。この場にいるのは、認めたくはないけれどやはり怖かった。
「駄目だよ」
 ロイはエドワードの手を離さない。
 そっと、エドワードの掌を持ち上げ、手の甲に唇を落とす。さながら、おとぎ話の騎士の如く。
「今夜は帰さない」
「……大佐」
 何故か、彼を呼ぶ声が震えた。
 今更ながらに、思い知る。自分はここに来るべきではなかった。絶対に、来てはいけなかったのだ、と。
 この扉を通るべきではなかった。そう、決して。
(どうして)
 どうしてこんなことになったのだろう。
 どうして自分はこんなところに。どうして彼は自分をこの場所に。
 どうして。
 どうして。
 どうして。
 わからなくて混乱する。事の発端はほんの数時間前。それまでは、確かに日常だったのに。
 わかっているのはただ一つだけだ。


 自分はもう、もどれない。


 理解できたのは、その事実だけだった。

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