G A T E
4
ごくりと自分の息を飲む音が、妙に生々しく聞こえた。無意識にドアへと視線を向ける。ほんの数メートルだ。あの扉をくぐり抜ければ、自分はきっと再び日常に戻れるはず。
「往生際が悪いな、鋼の」
その視線に気付いたのだろう。おそらく笑顔を作りながら、ロイはそう言った。それは隙がなく、走って逃げるタイミングが掴めない。
「当たり前だろ」
どこの世界に、君が欲しいと同性に言われてそれじゃぁ、と素直に抱かれる男がいると言うのか。それも、もうすぐ結婚する、そんな相手に。
「……浮気は良くないと思うぜ?」
「まぁ、一般的にはそうだな。私も推奨はしないよ」
目の前の男は笑顔のままだ。それも、胡散臭い、という枕詞がしっくりくる類の。
「それなら思いとどまれよ。な?」
おそらく、というか間違いなくこの男は本気なのだ。それはわかる。わかるが、やはりエドワードとしては頷くわけにはいかなかった。
確かに欲しいものを聞いたのは自分だし、それを与えられるのも自分だけかもしれないが、しかしさすがに貞操はそうそう捧げられない。
「それは無理な相談だ」
(どうして無理なんだよっ!)
即答され、心の中で思い切り怒鳴りつける。だが、口に出すことはなんとなくできなかった。どう説得しようかと必死で思考を巡らせる。
だが、ロイはそんなエドワードをいつまでも待つ気などなかったらしい。再び腕を力強く握られたかと思うと強引に引っ張られ、放るようにしてベッドへと移動させられる。
「ぅわっ」
ぎしぎしとベッドのスプリングが鳴る音を認識する頃には、ロイもベッドに乗り上げている。彼の顔はこれ以上ないくらい至近距離にあった。
(キス、される)
そう思った。思った瞬間には、実際に唇が重なっていた。渇いた唇の感触。それは束の間で、まるで啄むように彼が下唇に触れる。びくりと身体が震えた。
その動揺はすぐにロイにも伝わったのだろう。彼が笑ったのが分かった。それがひどく悔しい。
ぐい、とロイはエドワードの顎に手をやり、唇を僅かに開かせる。どう反応して良いのかわからず戸惑っているうちに舌が入り込んできた。
「ん、……んんっ、……っ!」
驚いた、なんてものではなかった。衝撃が強すぎて何を考えて良いのかもわからない。柔らかく、ぬるりとした存在が自分の口腔を思うさま暴れ回る、その感触。
呆然としている間に彼の舌がエドワードの舌を絡め取り、翻弄する。息苦しくて、ますます何も考えられなくなった。
その間に、気付けば自分の身体はベッドへと完全に押し倒されている。背中にはベッドの柔らかい感触。目の前には、あまりにも間近すぎるロイの顔。もう、何を考えて良いのか分かるはずがない。
唇が離れたのは、それからどれくらい経過した頃だろうか。とりあえずは酸素を吸い込むことを最優先事項にしたが、思考は乱れたままでどうにもならない。異性とすら、こんなキスをしたことはなかった。
「ななななっ、なに、何す……っ」
まともな言葉すら発することができない。だが、ロイはそんなエドワードに対して微笑むばかり。彼の唇が濡れて光っているのが、ひどく淫らに見える。自分の唇もあんな風なのだろうか、と思うと赤面せずにはいられない。思わずロイの唇を凝視していると、ロイはその視線に気付いたのだろう。思わせぶりにぺろり、と舌で己の唇をなぞった。まるで肉食獣を思わせるような、そんな視線を自分に向けたまま。
怖い、とまた思った。
命の危険はない。それくらいはわかる。わかるが、それでも怖いものは怖い。
後ずさりしようと上半身を僅かに浮かせた。けれど、あっさりとロイはその動きを阻止し、両手首を掴まれ、ベッドへと固定される。
「もう、止めようぜ大佐。や、やややや、やっぱまずいって。これ以上はさ!」
明らかに動揺した声音だが、自分を笑う余裕などなかった。必死で目の前の男が頷いてくれることを心底祈る。これほど切実になったのは随分と久しぶりだった。
「浮気なんかしないで、奥さんになるひと大事にしてやれよっ。良いところのお嬢さんなんだろっ?」
お願いだから思い止まってくれ、とこれ以上ないくらい切実な口調で告げる。だが、ロイは笑うだけだ。
「な? 結婚するんだから、こんなん駄目だって」
それでも更に言葉を紡ぐと、彼は笑いの形に曲げていた唇を開く。
「しないよ」
「……あ?」
(しない? しないって、なにを)
短い否定の言葉にぽかんとする。考えている間に、ロイはエドワードの耳を甘く噛んだ。
「ひぁ……っ」
自分でも聞いたことのない奇妙な声がごく自然に漏れた。その事実にも、その感触にもひたすらに驚く。
「結婚など、しないよ。少なくとも現時点でそんな予定など皆無だ。町で噂になっていると君は言うが、根も葉もない、というやつだな」
耳元で囁きながら、一方でロイの手がエドワードの衣服の下へと潜り込む。
「ちょっ、……触んなよ……、ゃっ……」
彼の手の動きが気になって、なかなか言われた台詞が理解できない。必死で止めようと躍起になったが、ごく自然な動作で脇腹を滑り、腹を撫で、最後に、胸の突起を指の腹で押した後爪ではじくような動作をする。
「ゃ……っ、それ、や……っ」
痛いような、むず痒いような、そんな奇妙としか言えない感覚。身体が熱を持ち、いつもと違う自分になっていく。こんな感覚は知らない。こんな感触は知らない。こんな自分は、知らない。
「こんな、……こんなん、駄目だ……っ!」
思わず半泣きになりながら、そう叫んだ。
「何故?」
冷静なまま、男はエドワードに問う。
「私は結婚しない。ついでに言えば今現在特定の女性とつきあっているわけでもない。だから、浮気にはならない」
掌の動きを止めてくれたおかげで、その言葉はどうにか理解できた。
(結婚、しない……?)
「けど」
「どうしてそんな噂が流れたのか想像はつくがね。少し前の話になるが、深窓の令嬢と確かに見合いはした。……私ではなく、ハボックが、だが」
今度は確実に言葉を理解することができた。思わずロイの顔を凝視する。彼は苦笑を浮かべていた。
「結果としては振られたらしいんだが、伝言ゲームの要領で間違って町に広まったんだろう」
「……何だよ、それ……」
茫然自失とはこのことだ。あの食堂の女性客達が荒れるほど飲んだというロイの結婚話の真実は、あまりにもあっけない。
「その台詞は私の方が言いたいんだが?」
不機嫌気味な表情を浮かべられ、戸惑う。
「私は君を口説いたはずだ。その上で、君と私は食事も何度かした」
「……そりゃ、そうだけど」
確かに口説かれた。それは事実だ。事実だが、しかし。
「けど、あれは冗談だろ?」
「何を好きこのんでわざわざ男を冗談で口説かなければならないのかな。罰ゲームでもあるまいに」
では、あれは本気で自分を口説いていた、というのだろうか。だが、彼は女好きのはずだ。そう告げると、彼はわざとらしくため息をついた。
「確かに、私は女性が好きだよ。とてもね」
「ならどーしてオレを口説くんだよっ。オレは男だ!」
「知っているとも。だが仕方ないだろう。人間は必ずしも好みのタイプだけに惹かれるわけじゃないんだ」
なんだかひどく失礼で、それでいて恐ろしい台詞を告げられたような気がした。
「大佐。……あの、もしかして、まさか」
(まさか。んなこと、あるはずねぇし)
自分に言い聞かせたが、そんな思惑をばっさりとロイは切り捨てた。
「私は君が好きだよ。だから口説いた。それなのに、君は私が結婚するらしいと思い込む上に祝福の言葉を寄越すとは、あんまりだとは思わないか?」
「けど、でも、だって」
おどおどと口を開くが、もうろくな言葉にはならない。単語と言って良いのかも謎だ。目を白黒とさせるばかりだった。
「君はまだ小さいし、子どもだからゆっくりと距離を縮めようと思っていたが予定は変更だ」
「誰が小さい豆粒かーっ! オレは子どもじゃねぇっ!」
聞き捨てならない台詞にだけはどうにか反応し、反射的に怒鳴ったがそれがまずかった。
「無論、子どもじゃないとも。今すぐ大人の階段を上ってもらう」
ロイの表情から、笑顔は消えていた。その目が本気を訴えている。
(おおおお、大人の階段って何だよっ)
逃げよう。逃げなければ本気でやばい。まずい。絶対に。
彼は結婚しない。それは分かった。自分を本気で口説いていたらしい。それも分かった。
分かったが、自分が急激に大人の階段とやらを上る理由には、きっとならないはずだ。
「……ひ、ゃ……っ、ま、ままままてって、大佐っ!」
ロイの手が再びエドワードの胸元をまさぐった。こりこりといつの間にか立ち上がった乳首を摘まれ、身体がまた熱を持つ。そんな中、必死で彼を制止するために声を出した。
「待たない」
再び動きを止めて、にべもなくロイは言い放つ。いっそ見事な程だった。
「待っては駄目なのだと先ほど痛感した。それに、君が欲しいものをくれると言ったんだ。だからもらうだけだよ」
「けど、……っ、それはあんたが結婚すると思ったからで……っ」
そうだ。自分は『結婚祝い』を渡すつもりで。だから欲しいものを尋ねたのだ。けれど彼が結婚しないと言うのなら、渡す理由もない。
「第一、オレもあんたも男だしっ!」
「男だな」
「やっぱっ、ふ、不自然だろっ、こーいうのは!」
ぜぇぜぇと最後は息切れしながら叫んだ。しかしその返答は次の通りだった。
「だが、欲しいと思ったのだから仕方ないだろう。私は自分に素直になることにしているんだ」
(素直になるなああああああああああああぁっ!)
心の中で絶叫したが、実際の声で叫ぶ元気はもうなかった。
「君が欲しいから抱く。単純だろう?」
確かに単純だった。それは認めよう。だが、しかし。
「……そーいうことは、両思いになって初めてすることだろ……?」
力なく言っては見たが、ロイが感銘を受ける様子は無論なかった。それどころかかちゃかちゃとエドワードのベルトに手を伸ばし外している始末だ。
「それはその通りだが、これから両思いになれば良いだけの事だよ。予定が多少前後するだけだ」
むちゃくちゃな理論だった。しかしロイの中で、それは決定事項なのだ。食事を共にする、という時と一緒で、ロイの中で決定してしまった以上は変更などするはずがない。彼はそういう男だとすでにエドワードは知っていた。
「……オレに、他に好きな奴がいたらどーすんだよ」
「取りあえず、燃やすかな」
脱力した状態での問いは、実に恐ろしい即答だった。
「必要なら全て燃やす。君が私以外選べなくなるように」
顔は笑っていた。そして目は笑っていなかった。
(本気、だ)
戦慄した。この男は、本当に本気だ。その時がもしもやってきたならば、躊躇わないだろう。そう思った。
「君が欲しいんだ」
言葉は情熱的だった。心がこもっていることも、もう疑ってはいない。恐ろしいほど実感できた。それは告白ではなく、脅迫だったかもしれない。
「けど、でも、オレ……っ」
どう答えて良いのかわからなくて狼狽える。こんなに困ったことなど今までなかったかもしれない。
思わず、扉を見つめる。閉ざされたそれ。歩ければ、ほんの数歩。けれど自分があそこまで行ける確立は恐ろしく低い。
どうしよう。どうすれば良いのだろう。
もし可能なら、逃げるのが一番良いはずだ。だが、足はしっかりと彼の身体が押さえ込んでいる。逃がすつもりがないことは明白だった。
もう冗談ではすまない。全てがもう遅い。彼の言葉を信じるならば、エドワードが結婚祝いのことなど口にしなければこうはならなかったのだろう。そうすれば、こんなことにはならなかった。けれど、もう遅い。
せめて、この部屋に。この家に来なければ良かった。そう思っても、もう後の祭りだ。この場所に来た時点で、全ては決定していた。
(そりゃ、オレだって本気で大佐のこと嫌ってるわけじゃ、ねぇけど……っ)
多少は頼りにしているし、錬金術師としてはそこそこ以上だと一目を置いている。たまに食事をすることを了承するくらいには、嫌ってはいないけれど。
「悪いが、否定の言葉を聞くつもりはないよ」
少しも悪いとは思っていない口調でロイは言った。完全に、それは決定事項だった。
「せ、せめてもう少し待てよ……っ」
狼狽えながらの懇願も、無意味らしく一刀両断でしかなかった。
「待たない、と先ほど言ったはずだよ」
逃げ場はない。答えも一つしか用意されていない。
(オレは)
麻痺しかけている思考を必死に奮い立たせ、エドワードは考える。
(オレは、どうしたい?)
必死で自分の中の答えを探す。目の前の男を。自分を欲しがる、この男を自分はどう思っている。嫌いではない、それはもう分かっているけれど。
結婚すると聞き、不可思議な気持ちにばかりなった。どうしてそんな気持ちになったのか。どうしてただ、祝福することだけができなかったのか。それは何故だ。自分は彼を、どう思っている。
考えている間に、ロイは大人しくなったエドワードの衣服を脱がしていく。身体は強ばっていたから、それは少しの時間を要した。
(大佐は、オレを多分、好きで。オレは)
未だぐるぐると考えているエドワードの頬に、ロイは軽く唇を落とした。まるで幼い恋人たちがするような、優しく、軽いキス。
(…………オレ、は)
自らの瞼が、ごく自然に閉じられた。
それが合図であるかのように、ロイと唇が重なった。唇を開くことはできない。変わりに、僅かに唇がわなないた。
(……ふれるだけのキスは、嫌いじゃ、ない)
そして分かったのは、その程度の事だった。それも、考えたから理解したのではなく、彼が唇に触れたことで嫌悪したかしないか、その事実から判断した結果だ。
(考えても、わからねぇってことか)
脱力し、天井を仰ぐ。もう、なるようになれと思った。それは自暴自棄に似ていたが、多分違う。
考える必要など、きっとないのだ。先ほどの舌が絡まるキスも、驚いたし酸欠気味にはなったが嫌だ、とは思わなかった。……怖い、と思うことすら、そういえばなかった。 つまり自分は、この男を否定するつもりはない、ということか。
「大佐。オレ、心の準備とか、まだ、なんだけど」
それでも、今すぐにこの男を受け入れられるのかと言われれば謎だ。それこそ、時間があれば、また話は別かも知れないが。だからそんな台詞を途切れ途切れに口にしたが、ロイの返事は予想通りのものだった。
「心の準備など必要ないよ、鋼の。全て、私に任せれば良い」
(……やっぱし)
横暴で傲慢な台詞だった。彼にこの上なく相応しい台詞だとも思った。
身体は脱力したままだ。逃げられない。
否、きっと自分にはもう、逃げるつもりがないのだろうな、とぼんやりと思う。
今もホテルで自分を待っているだろう弟の姿を思い、ごめんなと心の中で呟く。何に対する謝罪なのかは自分でも良く分からない。一足先に大人になる、ことについてだろうか。
すぐ側にあるはずの扉が、ひどく遠く思えた。
……戻れない。
けれどもう、それでも良いか、と思う。少し、やはり怖いとは思うけれど。それでも、この男を全身全霊で拒否する気になれない。ひどく不穏なことを平然と言う、傲慢で最悪な男を。
だからきっと、戻れない、ではなく。戻らない、なのだろう。
この場所に来ない方法はきっとあったはずだ。必死に、決死になれば。けれど、結果として自分はここにいる。
それが結局、自分自身が紡いだ答えなのだろう。
男の掌がエドワードの身体を滑る。触れていない場所を無くすかのように、ゆっくりと、静かに。その感触に、熱い吐息が漏れた。
まだ少し、怖い、と思う。思うけれど、もう仕方ないと思った。やはり、嫌悪はないままだったからだ。その変わり、心が少し疼くような、そんな形容したがたい感覚があった。
そんな自分を認識して、エドワードは小さく笑う。
もしかしたらこれが愛しい、という感情かも知れないと思い至った。無論、そうではないかもしれない。自分はただ、怖いのかも知れない。
けれど、それすらもうどうでもよかった。恐怖と、それから別の感覚を与える男の背中に爪を立てる。
戻れない。戻らない。
……それでも良い。
どこか混沌とする意識の中、そう思う。
それが幸福なのかは、まだわからない。わかる必要もない。揺さぶられ、掻き回され、声が漏れる。涙が伝う。
それでも尚、嫌悪できない。背中に回した手を離せない。
きっと、自分はもう離せない。
無論、物理的には離せるだろうけれど。そんな自分が少しおかしく、それから少し、……本当に少しだけ、幸福なのかも知れない、と思った。
E N D
◇ ■ ◇
ということで同人誌(コピー版)再録でした。
ちなみにオフ版はこれ+αな感じですが話自体は全く一緒です。
某シーン(笑)+エピローグ追加という程度なので。
尚、オフ版は完売いたしました。ありがとうございました。
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