一度目の鼓動
とくん、とくん、と。
その音は確かに存在していた。新しい、まるで産声のように。
確かな鼓動が、あの瞬間、―――自分を支配していたのだ。
コンコン。
二度の小さなノックが、そう広くない部屋に響いた。
「悪い。水野だけど開けてくれないか?」
ドアは開かれず、聞こえてくるのはそんな声だ。
「…自分で開けりゃ良いのに」
当然の意見を結人が言ったが、竜也がそうしない理由を英士は分かっていた。それで仕方無しに立ち上がり、ドアを開く。
「…悪いな」
予想通り、竜也の両腕はうまっていた。これではドアノブを掴むことができないのは当然だ。ノックはおそらく足でしたのだろう。
「いや」
言いながら目線で促すと、竜也は当然のように部屋に入った。それを見て、ようやく事態を把握した結人がなるほど、と小さく呟く。一馬の方はぎょっとしたように目を見開いて見ているだけだ。悪態をつく気にもなれないらしい。
まるで姫君を抱える王子、という馬鹿馬鹿しいシチュエーションを再現するかのように竜也は将を抱えていた。将を見れば熟睡していることが見て取れる。それは今日が初めてではなかったら、英士自身は驚かなかった。
「また一人で練習して、疲れてそのまま寝たってところかな」
小さく息を吐きながら言うと、竜也は多分な、と返事を返した。将が割とどこでも寝られる性質であることはとっくに承知済みだ。そうして、それを甲斐甲斐しく抱きかかえてくるのはいつも竜也だった。つきあいが長い分、将の性格や好む場所を知っているのは彼で、どこかで眠っている将を見つけやすいのは当然と言える。もっとも、竜也自身がそれを苦に思っていないのは明らかだった。仕方がないな、と言いながらも彼を起こさずに抱きかかえてくるあたり、相当のものだ。
将の使用しているベッドに彼をゆっくりと横たわらせると、呆れるほどまめなことにタオルケットを掛けていた。将の方は、と言えば、少しも起きる様子を見せない。見事な熟睡ぶりだった。
「邪魔したな」
用がすむなり、そそくさと竜也は出ていく。別に自分達も竜也と団欒をする気などなかったが、あまりにも顕著な態度に苦笑するしかなかった。
「…良くあることなのか?」
「今回で三度目だな」
結人の問いに正直に答えると、妙に納得した様子だ。
「…甘やかしすぎじゃねぇか、こんな奴に」
一馬の言うことはもっともだったが、こればかりはどうしようもないことだ。肩を竦めてみせるしかなかった。
自分が郭、で将が風祭、という苗字である以上、同室なのは仕方のないことだ。選抜メンバーの決まった今となってはAもBもない。補欠だから別の部屋、という考えもあっただろうが、補欠の方が二人部屋ではどうにも不公平だ。よって名前順に部屋割りが決定。……そして現在に至るわけだ。将はどこかで眠り込み、竜也がめざとく見つけて運んでくる。または、ひたすらこの部屋でわやわやと(狭い部屋であるにも関わらず)そこそこの人数で歓談していく。それはすでに、この部屋ではめずらしくない風景だった。
もっとも、自分達も竜也を笑うことはできないだろう。部屋はどこも同じ広さで在る以上、今日自分達が話すのは、別に一馬の部屋でも、結人の部屋でも、どこでも良かったはずだ。それなのに、大人数が来るかも知れないこの部屋を選んでいるのは将の部屋でもあるからだ。実際問題、残る同室の二人は寝に帰る以外あまりこの部屋にはいない。
「よっく寝てるなぁ」
感心したように結人が言う。ひどく楽しそうに。
「滅多な事じゃ実際起きないよ。多分、夕食の時間になっても起きない」
ここ数日間で知った事実を言うとだろうなぁ、と笑う。それはどう見ても呆れると言うよりは微笑ましい、と思っている類の笑みだ。つまり結人は確信犯的にこの部屋に来ているのだ。将に会えるから。決して自分と話すためではなく、もっと身近な彼を見るために。一馬の方も、興味のない顔をしてみせるが内心は似たようなものだろう。もっとも、その事実に本人も気がついてはいない様子ではあるのだが。
「無邪気な寝顔してんな〜」
わざわざ寝顔を覗きに言って、そんな当然の感想を結人が漏らす。英士にしてみれば、寝顔自体は同室で在る以上、もう珍しくもなかった。逆に言えば同室であるにも関わらず、とりまきがいないときの彼は大抵寝ている為、話すことはほとんどなかった。
「自分の限界までサッカーして、そのまま熟睡に入るタイプらしい」
「いかにもそーゆーカンジだよな、コイツ」
彼のサッカーに対する情熱は確かなものだ。一応自分達もサッカーが好きで、だからこの合宿にもいるわけだが、それでも彼の情熱とは少し違う。好きの形に正解などないから、それは個性というのかもしれないが。
「自分をコントロールできないだけだろ」
「ま、それもそうだけどさ」
一馬の台詞に結人は頷いてはみせたが、それでも顔は綻んだままだ。どこまでも素直な結人と素直ではない一馬の相対性は見ていてなかなか面白い。
「何、笑ってんだよ、英士」
拗ねたように言う一馬に更に苦笑する。前言撤回。一馬も素直だ。
「別に」
そうして、とりとめのない会話は続けられてゆく。いつも通りに。――――――そう、表面上はいつも通りに。
けれど、多分違うのだ。もう、合宿前の自分達ではない。
友達は友達だ。それは、変わらない。これからも、きっと。
けれど、将の存在が確かに自分達の関係を変えてゆく。無論、将はそんなことを知るはずもない。それは将の意思とは無関係に、けれども当然のように存在する変化なのだ。
―――彼の、存在故に。
初めは興味もなかった。ただの雑魚だ。そんな風に、自分も一馬も結人も思っていた。それは、今までの自分達からすれば当然の価値観であったように思う。才能だけでも、努力だけでもサッカーは一流にはなれない。その両方がなければ。…そうして、自分達はその両方を持っているはずだと、そうひたすらに思って。
その考えは、勿論今でも残っている。そう、形を少しばかり変えて。
――――――気がついたら、彼は―――風祭将は、自分の心の中に存在していた。
当たり前のように、自然に入り込んでしまったのだ。それは自分だけではなく、結人も一馬もそのはずだ。口には出さないけれど、長いつきあいでそれくらいはわかっている。
もっとも、正確には自分達だけではない、と言うべきなのだろう。だからこそ、いつでも彼の周囲には人がいるのだ。竜也は勿論、そのほかにもたくさん。
魅せるサッカーをするわけではない。けれど、惹かれるサッカーには違いなかった。少なくとも仲間としても敵としても、刺激を受けるのは間違いない、そんなサッカー。
――――――そうして。
自分は、確かに変わったのだと英士は思う。
変わった、または変えられてしまった。どちらの言い方が正しいのか、それはわからない。
MFとしての自意識も確かにあったと思う。竜也や、多紀や、たくさんのライバル達への。ポジション争奪戦である以上、負けるつもりなど毛頭なかった。自分は自分のサッカーをするつもりでいた。例え一番に選ばれたのが竜也であったとしても。
けれどそれよりも何よりも、やはり彼の存在。彼のプレーが影響したのは確かだった。それは、誰よりも自分自身が分かっている。
……そうして、自分は変化を遂げたのだ。
それを自分は確かに喜んだように思う。自然にそれを決意したとき、唇が笑みの形に曲がったのが自分でも分かるほどに。
それは、勝ち負けとか、優劣とか。そんなことは少しも思い浮かばなかった。自分の思い通りにボールを蹴り、そしてゴールを決める。
そんな単純な行為。今までも何度もあった、それだけの事実。
けれどそれは、―――あの瞬間は、確かすぎる充実感と満足感を自分に与えた。今までからは、想像もつかないほど強大に。
明らかすぎる、彼の影響力すら心地良いと、そう思ったのは何故だろう。
そう、確かに――――――変わったのだ。とくん、とくんと、心臓の鼓動が喜びで高鳴った、あの瞬間に。
何かが自分の中で確かに。そうして、それもまた自分だけではないのだろう。それぞれの瞬間にみんな変化を遂げたに違いなかった。
―――――――全て、彼の存在によって。
まるで新しい生命のように、確かな音を伴って。
あの音を。鼓動を、多分一生忘れないだろう、と英士は思う。
その高揚感と共に、忘れられない音になるだろう、と。
彼がいたからこその変化。あるいは、変貌。……それを大人は、成長、と呼ぶのかも知れない。
それを自覚してしまったら、もう過去に戻れるはずがなかった。彼に影響されたのは、彼に惹かれた自分がいることの証明でもある。もし彼でなければ、―――他の人間であったならば、自分はさほど変わらなかったに違いなかった。
つまり自分は彼に魅入られてしまったのだ。実に前途多難なことに。
恋、と、その感情を呼んで良いのかはわからないけれど、呼び方などどれでも良い。事実はどう呼んだところで変わることなどないのだから。
問題は結局、その相手が彼である、ということと、惹かれたのは自分だけではない、ということだ。そのライバルの多さはポジション争いの比にならない。しかも彼はどうひいき目に見てもその手の感情に鈍い。そりゃもう際限なくこの上なく鈍い。それは竜也や翼や(以下略)を見ていればイヤと言うほどわかる。
本当に前途多難だった。けれどリタイアする気にもなれるはずがなかった。
どんな難関であろうとも、可能性はゼロではない限り、あきらめることなどしない。できるはずがない。
それ故に、友人達との関係が今までと微妙に変わったとしても、それは仕方のないことだ。元々、友達であり、最高のライバルでもあったのだから。争うことがもう一つ増えた、それだけの話。
彼に会わなければ良かったと。そんな風に思えない以上、前に進むしかないのだ。どこまでも、ひたすらに。
――――――過去に戻りたいなんて、思わない。
微笑んで二人の会話に相づちを打ちながら、そう、英士は思う。
そう、戻りたいなんて思わない。
―――彼の出会いは自分に。自分達にとって必然なのだと、もう分かってしまったのだから。
夕食をすませて部屋に戻ると、案の定部屋は暗闇だった。三人で歓談中に食事時間になり、電気を消したのは自分自身だから当然の結果だ。おそらく今日も同室の連中は消灯時間まで戻ってこないだろう。一馬と結人は夕食時に娯楽室に行くことにしていたし、しばらくは寝ている彼と二人だけということになる。もっとも、それが単純に喜べるシチュエーションかと聞かれるとかなり困るのだが。
そんなことを考えながらぱちん、とスイッチを押して電気をつける。明かりくらいで彼が起きないことも良く知っていた。
(………)
そして見たのは、なんとも言えない風景だ。
確かにベッドで寝ていたはずなのに、将は床で寝ていた。寝相云々の距離ではない。
けれど、彼に歩み寄ってその理由を知った。彼の手には、兄から持たされたという携帯電話が握られたままだ。
おそらく、寝ている最中に兄から電話が来たのだろう。相当ブラコンの兄らしく、将が電話を受けているところを何度か見ている。
そうして電話に出て、話して。……そのままベッドに戻る前に再度眠ってしまったに違いない。
彼らしいと言えないこともないが、それはともかくこのままにしておくわけにもいかない。この部屋に彼と自分しかいない以上、やはり自分が彼をベッドまで運ぶのが当然の流れだろう。
成る程竜也が彼を背負うのではなく、横抱きにしたのはその方が楽だからだ、などとかなりくだらないことを考えながら抱き上げ、ベッドまでの短い距離を歩いた。
「…ぅ、ん…?」
すると、眠りが浅かったのか、将の口から小さな吐息混じりの声が漏れた。つまりどうやら自分は彼を起こしてしまったらしい。おそらく、ベッドのスプリングが原因だろう。竜也と違って慣れてないから、些か仕方のないことだ。
「あれ…? 郭、くん…?」
うっすらと瞼を開いて、けれどとろんとした瞳のまま彼はいかにも寝起きの声で英士を呼ぶ。
「…どうしてここにいるの?」
どうしてても何も、ここは英士の部屋でもあるから当然だ。けれど、答える前に彼は脳天気に笑った。完全に寝ぼけているのは間違いないだろう。
「でも、なんか嬉しいな。…郭くんとはあんまり話したこと、なかったから」
にこぉ、と笑う彼はひたすらに無邪気だ。
「話す機会もなかったからね」
正確に言えば最初の頃は話す必要を感じていなかったのだが、それを言う必要はないだろう。第一、彼が明日この会話を覚えているとは思えない。
「…郭くん、すごい正確で綺麗なシュートするよね」
頭が半分寝ていてもやはり将は将で、口にするのはそんな台詞だ。そうして、それが彼からの誉め言葉である以上、ある程度嬉しいと思ってしまうのは仕方のないことだろう。寝ぼけながら言っているということは、それは彼の本心のはずなのだから。
「水野くんも翼さんも、杉原くんもすごいけど、郭くんもすごいよね。…合宿に来てる人は、みんなすごいよね」
あるレベル以上でなければ選抜合宿にそもそも参加できないし、ましてや残れるはずがないから当然の話だ。けれど相手は正気ではないのだから、そうだな、と適当に頷いた。それから、ふと何となく口にする。どうせ彼は忘れるだろう。
「…君も、すごいと思うよ」
「…ぼく?」
不思議そうな声音で問い返してくる。だから重ねて答えた。
「すごいと思うよ、本当にね。…まさか自分が男に惹かれるなんて思わなかった」
「…惹かれる…? 誰に…?」
どこか語尾があやふやなのは、やはり頭が寝ているせいなのだろう。だから安心して、英士は口を開いた。
「俺が、君に」
「…ぼくを、郭くんが…? すごいね、それ」
くすくすと将は笑う。冗談と思っているのか、意味がわからないのか、嫌悪の表情は少しもない。
「俺もそう思うよ」
誰かにここまで惹かれた、その事実は確かにすごい。そして、こんな会話を自分と彼が―――彼は夢現だけれど―――している事実も、すごい。
「ぼくも、好きだよ。…みんな、大好き」
にこり、と極上の笑みを見せて言うのはそんな台詞だ。
大好きの、その感情は自分と違うのは確かだけれど。切なくなるほど幸福になれる微笑みだった。
とくん、とまた鼓動が聞こえた。自然に口元に小さく笑みが生まれる。
「できれば、一番になりたいけどね」
小さく呟くと、将はまたきょとんとした顔をする。
「わかる必要ないよ。…おやすみ」
いままでの会話は、存在しないも同然だ。だから、彼が理解する必要などあるはずがない。この会話は、単なる自己満足に過ぎない。そう思って自嘲する。
「うん。…おやすみ、郭くん」
もう一度、にこり、と笑って。そうして、瞬く間に将はすうすう、と規則正しい寝息をたて始める。半分寝ていた、というよりは八割方寝ていた、の方が正しかったのかも知れない。
(……いつか)
いつか自分は、それこそ彼に告白する日がくるのだろうか。否、しなければ進めるはずがない。
……そう、それが今ではない、というだけだ。
今の彼には言っても仕方ないだろう。今は何より、この合宿が全てだから。
けれど、いつか。―――そう遠くない、いつかに。…必ず。
そっと英士は将の寝顔を見た。幸福そうに彼は眠ったままだ。今度こそ、朝まで起きないだろう。
おそらく、幸福な夢を見ているのだろう。―――先程の会話も、夢として少しは記憶に残るのだろうか。
そんなことを考えてたが、やがてかぶりを振った。それは、どちらでも良いことだ。
彼が覚えていても、いなくても。それはすべて、彼にとって、夢の話になるのだから。
そう、――――――今は夢で良い。あるいは幻でも。
真実は、確かに己の中に存在する。
とくん、とくん、と。
あの瞬間から、ひたすらに。
――――――その鼓動は、鳴り続けているのだから。
END