いつか は つ だろう









 まるで一枚の絵のようだ、と思った。

 扉を開くと、彼は目を覚ましていたらしい。半身を起こし、窓の外をじっと見ていた。正しくは、空を見ているのだろう。眼はどこか虚ろで、髪はいつものように結ばれてはおらず、解かれたままだ。そのせいもあるのか、はかない印象がぬぐえない。
 年上の男に対して、『はかない』なんて印象を持つのはおかしいかもしれないが、とにかく今の彼はそうとしか言えない雰囲気を持ちあわせていた。
 何と言えばいいのだろう。アルフォンスが出逢った中で、今の彼は一番はかなくて、そして綺麗な存在だった。綺麗なのは出逢った当時からずっとで、それは単純な造形を指すのではなく、雰囲気とか、空気とか、そんな曖昧で抽象的な部分だ。……無論顔も、醜悪と言うことはなく、どちらかといえばかなり整っている部類ではあるのだが。
「エドワードさん」
 名を呼ぶ。けれど、彼はぴくりとも動かなかった。ただ、窓の外を見ている。その様は本当に一枚の絵のようだ。美しくて、どこか切ない。そんな絵画。
「エドワードさん」
 もう一度彼の名を呼ぶ。けれど、彼はやはり動かない。自分の声など少しも聞こえていないのだろう。
 そんな単純な現実が、少しだけ哀しい、とアルフォンスは思う。彼はいつでも遠くを見つめている。自分の知らない、その世界のことばかり、考えている。今もそうに違いない。
 ひたすらに、彼は空を見続ける。空だけを。
(まるで、鳥籠の鳥みたいだ)
 そんなエドワードを見ていて、ぼんやりとそう思った。
 今の彼の姿は、狭い鳥籠に押し込められた鳥が広い空に焦がれる、そんな光景を連想させる。
 そのまま歩を進め、手に持ったトレイを机に置いた。そうして、動かないままの彼の肩に触れる。
「エドワードさん」
 三度目の呼びかけに、ようやく彼は反応した。びくりと身体を震わせ、それから視線をアルフォンスに向ける。ひどく、困ったような表情を浮かべていた。
「……ハイデリヒ」
 少し、声は掠れていた。風邪をひいたのかもしれないし、他の理由からかもしれない。それでも、年齢を考えればエドワードの声はかなり高いと言える。
「お久しぶりです、エドワードさん」
 その挨拶に、彼は微笑を浮かべた。やはり、はかない、と言うのが一番相応しい笑みだった。以前はもっと朗らかに笑うひとだったのに、とアルフォンスは思う。
「……久しぶり、ハイデリヒ」
「スープ、持ってきたんです。飲みませんか?」
 微笑みを浮かべながら尋ねると、彼は少し迷ったように視線を彷徨わせる。頼りなげな肩が印象的だ。
「ぼくとしては飲んでもらえると、すごく嬉しいんですけど」
 そう言葉を付け加えると、それならと苦笑を浮かべてエドワードが頷く。食欲が全くない、というわけではないらしいことに内心安堵した。
「サンキュ」
 トレイを手渡すと、彼が礼の言葉を口にする。どういたしまして、と笑って返した。左手でスプーンを持ち、スープを彼は一口、嚥下する。
「美味い」
「良かった。グレイシアさんが作ってくれたんです」
「……グレイシア?」
 彼にその名を告げるのは初めてのはずなのに、一瞬彼の動きが止まった。そのことを少しだけ不思議に思いながら、アルフォンスは口を開く。
「今、ぼくはグレイシアさんのアパートに下宿してるんです。すごく親切でやさしい女性ですよ」
 実際、エドワードを連れてきたアルフォンスを見て、あれこれと心配し、こうしてスープを差し入れてくれるのだから、グレイシアは相当お人好しと呼んで良いだろう。この状況下、彼女の暮らしもそう楽ではないはずなのに、いつでも彼女はやさしい。彼女が家主で良かった、と本当に思う。
「そうか」
 少し眩しそうに眼を細め、彼は頷く。何かを納得したかのようなそぶりが、また謎を呼んだ。けれど、エドワードはそんなそぶりを良く見せる。自分と逢ってから、ずっと彼はそうだった。
「……オレはどうしてこの場所にいるのか、聞いても良いか?」
 しばらくスープを黙って口にしていたが、やがてそう彼が切り出す。聞かれるだろう、とわかっていたから、意外性は少しもない問いだった。
「偶然、町で見かけたんです。見かけたときは本当に驚きました。あなたは雨の中、傘もささずにいて、声をかけた瞬間に倒れたんです。覚えてないですか?」
 あの時は本当に驚いた。自分は丁度帰宅途中で、偶然彼を見かけた。――――ある日突然、行方不明になった彼を。
 原因は何だったのか、それはアルフォンスにはわからない。オーベルトの元、自分たちは共に学び、研究した。それはつい昨日のことのように思い出すことができる。とても充実した、楽しい時間だった。
 初めて逢ったとき、エドワードはひどく驚いた顔をして自分を見つめていた。今はその理由を知っている。自分の顔が、彼の弟に酷似しているからだ。今は逢えないという、彼の大事な弟に。泣きそうな表情で自分を見つめ、それから微笑んだ。その表情は、きっと一生忘れられないだろう、とアルフォンスは思う。
 彼の弟に自分が似ていたおかげか、彼とはすぐにうち解けた。意気投合した、と言っても良い。
 研究に打ち込み、エドワードと笑いあい、時には口論のようになったこともある。本当に、それは楽しい時間だった。
 だが、彼にとっては違ったのだろう。最初は誰よりも研究熱心だったのに、徐々にその瞳は力を失っていった。まるでなにかに絶望するかのように。
 日に日に言葉少なくなる彼を見て、どれだけ自分は心配したことだろう。けれど、何を言ってもエドワードは微笑むばかりで、決まり文句のように『何でもない』と繰り返し言った。
 そうして、彼はある日突然、姿を消した。
 もっとも、オーベルトにはきちんと挨拶したそうだから、突然、というのは語弊があるかもしれない。
 それでもアルフォンスにとって、それは突然、としか言えないできごとだった。昨日までは自分と語り、微笑んだそのひとが突如いなくなる。その、喪失感。我ながら意外なほど、それは衝撃を産んだ。
 仲間達は彼の不在に慣れていったし、アルフォンスも慣れたとは思う。けれど、いつでも彼の姿をふとした瞬間、探してしまう自分がいた。理由などなかった。ただ、逢いたい、と思った。
 それはこうしてドイツへと戻り、相変わらずロケット制作に打ち込んでいる今も変わらなかった。
 だからこそ、彼を見かけたときは信じられなかった。あのひとが。逢いたかったひとが、そこにいる、というその現実が。
 ただ、呆然として。それから急いで駆けた。気がついたら、走っていた。走って、彼の名を呼んで。
 自分の声に、エドワードは確かに反応した。それまで宙をさまよっていた視線が自分を捕らえ、そして彼はその場に倒れた。
 雨の中、傘もささずに歩いていた彼はずぶ濡れで、風邪をひいて当然の状態だった。持っているのは見慣れたトランク一つ。迷わず、自分のアパートへと連れて行ったのはアルフォンスにとっては当然のことだった。
「そっか。悪いな、迷惑かけた」
「迷惑なんてかけてないですよ。……あなたに逢えて、嬉しいです」
 それは嘘偽りのない言葉だ。本当に、彼に逢えた事実が嬉しい。もう二度と逢えないかもしれない、と思っていた。だから、本当に嬉しい。
 エドワードは少し困った表情を浮かべたが、やがて笑った。
「オレも、ハイデリヒに逢えて嬉しいよ」
 その言葉は、きっと単純な意味だけではないのだろう。アルフォンスの顔は彼にとって別の意味を持つのだから。それでも、やはり嬉しいと思う自分は少しばかり滑稽な存在なのかもしれない。けれど、それでも良いと思った。
「いつ、ミュンヘンに?」
 尋ねると、エドワードはばつの悪そうな表情を浮かべながら口を開いた。
「今日、来たんだ」
「今日?」
「あぁ。最初に図書館に行って、気付いたら閉館の時間で。それで、歩いてた」
 つまり彼はホテルも決めずに、とりあえず図書館に向かっていたらしい。そうして閉館になり、外に出てみると雨が降っていた、ということだろう。傘を持たなかった彼はそのまま濡れながら歩いていた。
 きっといつものように、無理を重ねていたに違いない。彼はいつでも平気だ、と言うけれど、身体には相当負担がかかっていて当然だ。その状況下で雨に濡れ、疲労困憊していた身体は限界に達した。……おそらく、そんなところだろう。
 その瞬間に自分が居合わせて本当に良かった、と心の底から思った。
「ホテルは決まってないんですね?」
 確認すると、こくりとエドワードは頷く。旅慣れている、と彼はかつて言っていたが、その様はあまりにも無防備だ。
とてもこのままホテルへ連れて行くことなどできそうにはなかった。
「しばらくドイツに滞在する予定なんですか?」
「まだ決めてないけど、たぶん」
 彼の返事は曖昧だ。何故だか、彼の存在すらも曖昧なものになりそうな、そんな不安を覚えた。 
「それなら、一緒に住みませんか?」
 考えるより先に口が動いていた。アルフォンスの台詞に、エドワードはひどく驚いた様子でぽかんと口を開けている。
「え」
「ホテルに泊まるより、ずっと経済的です」
「……そりゃ、まぁ、そうだろうけど……」
 エドワードにとって、アルフォンスの言葉は余程、予想外の代物だったらしい。返答に困っているのがありありと伝わってくる。
「けど、迷惑だろうし」
「迷惑なんかじゃないですよ。一緒に暮らす人がいる方が、ぼくも嬉しいです」
 その台詞は半分真実で、半分嘘だった。一人で暮らすことには慣れている。それこそ、グレイシアなどは良く声をかけてくれるし、仲間もいる。だから、孤独に苛まれたことは一度もない。一人で暮らし続けたとしても、全く問題ないだろう。けれど、彼となら一緒に暮らしたい、とも思った。
 あの頃のように、一緒に研究はできないけれど、それでも構わない。彼が、側にいてくれるのならそれだけで。
「けど」
 断りの言葉を探しているのだろう。エドワードは困惑の表情を浮かべたままだ。
 けれど、案外彼が押しに弱いというか下手に出られると弱い、ということをアルフォンスは知っていた。
「病気とかになったとき、一人だと心細いんです。それに一人だと色々大変で。だから、エドワードさんがいてくれると助かります」
「……そういや、結構病弱だったもんな」
 病気、の一言でエドワードの心は大分動いたらしい。実際、アルフォンスは確かに病弱だった。最近などは自分でも妙に良く咳き込むようになったと思う。
「でも、良いのか?」
「なにがですか?」
「その、……恋人とか、オレが同居したら来にくくなるだろ?」
 まさかエドワードがそんな台詞を言うとは思わなかった。今度はアルフォンスがぽかんとして、それから笑った。
「恋人はいません。だから心配ないですよ」
 恋人を作るよりも、研究をする方が楽しかったし、そんな暇もなかった。エドワードも、あまり恋愛に興味があるとも思えなかった。そんな彼が、まさか恋人云々の心配をするなんて、あまりにも意外だった。
「……女の子とつきあいたい、とかって思わないのか?」
「あんまり思わないですね。それよりも研究の方が今は楽しいので」
 考えてみれば、彼とその手の話をするのは初めてだった。「そっか」
 少し、寂しそうなその表情。それは見覚えのある表情だった。それを以前見たのはいつだったのか、と思い、すぐに思い出して納得する。
(あぁ、そうか)
 彼の弟と、自分の返答が一致しなかったときに、こんな表情をエドワードは浮かべたことがある。今も同じだろう。きっと、エドワードの弟は異性と恋することを望む、そんな存在だったに違いない。
 いくら似ている、と言っても別の人間なのだから、思考や趣向が違うのは当然のことだ。それはエドワードも理解しているはずだが、どうしても無意識のうちにアルフォンスと彼の弟の似通った部分を探してしまうらしい。
 彼にとって、あまりにも弟の存在は大きい。名前も同じ、もう一人の『アルフォンス』。
 きっと、自分にとって、世界で一番羨ましくて、そして妬ましい存在の、その名前。
「でも、そのうち欲しくなるかもしれねぇし」
「そのうち、の話は今していません。今、ぼくはあなたと一緒に暮らしたいんです」
 言うと、やがてエドワードは苦笑を浮かべた。
「……案外、意固地になるタイプだよな」
「そんなことはないですよ」
 答えながら、けれどそうかもしれない、と思った。今引き留めなければ、またエドワードは自分の元から去ってしまうだろう。
 そうしたら、もう二度と逢えないかもしれない。どんなに逢いたい、と願っても。
 けれど、それは嫌だ、と思う自分がいる。こんなにも、今エドワードは自分の側にいる。このまま、去らないで欲しい、と。そう思う自分がいる。
「ただ、あなたと一緒に暮らしたいだけです」
 それはきっと、我が儘なのだろう。それはわかっている。けれど、どうしても彼に頷いて欲しかった。このままいなくならないと、そう言って欲しかった。
 この地にしばらくでも良い、留まって、そして自分と共に生きて欲しかった。
「駄目……、ですか?」
 エドワードにしてみれば、ふらりと来ただけの国で、久々に逢った人間に『一緒に住もう』と言われても迷惑なだけかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。
 じっとエドワードを見つめていると、やがて彼は眩しいほど鮮やかな笑顔を浮かべて言った。
「仕方ねぇーなぁ。じゃぁ、一緒に住んでやるよ」
 その言葉の意味を理解するのに、五秒の時間を要した。そうしてやって来るのはひたすらの歓喜だ。嬉しい、としか言いようがなかった。
「けどオレ、いつまでドイツにいるのかわからないけど、それでも良いのか?」
「勿論です。これからよろしくお願いします。エドワードさん」
 即答し、手を差し出して言うと、エドワードは照れたように笑った。その表情は、自分より年上とはとても思えないほど、どこか幼い。今日見た中で、一番朗らかな表情だった。
「あぁ、よろしく」
 そのまま、彼も右手を差し出し握手を交わす。義手でできている彼の手は硬く、体温はなかったが、だからこそこれが彼だ、と実感できた。
 本当に、これ以上ないくらいとても幸福な気分になった。彼はいつまでドイツにいるかわからないというけれど、できればずっとずっとドイツにいれば良い、とも思った。

 
 ――――彼との同居生活は、つまりそんな風に始まった。

  



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