いつか 鳥は 飛び立つ だろう
3
アパート前に到着してみると、丁度グレイシアが店じまいをしているところだった。
「あら、お帰りなさい」
「こんばんは。手伝いましょうか?」
「あら、良いのよ。もう終わるから、気持ちだけいただくわ。ありがとう」
にっこりと笑って辞退され、そうですか、と大人しく引きさがった。必要ならば言葉に甘えてくれる程度には気安い仲だ。
「風邪でもひいたの?」
「え?」
「顔色が良くないわ」
笑顔を少しばかりくずし、心配そうな表情を浮かべて尋ねられる。風邪をひいた覚えはなかったが、なにしろ残り寿命について聞いたばかりだ。多少顔色が悪いのは仕方のないことだろう。
「そんなことはないですよ。元気です」
笑って答えたが、グレイシアはなかなか信じてくれない。もっとも、アルフォンスが病弱であることを知っているのだからそれは当然かもしれない。
「あんまり無理しちゃ駄目よ。エドもあなたも、夢中になったら無茶を平気でするんだから」
「はい、気をつけます」
鋭い指摘に苦笑して頷くと、彼女も笑う。柔らかな雰囲気のグレイシアは優しく、本当に良い人だ。彼女が大家で良かった、と何度思ったことだろう。エドワードと同居することを彼女に伝えたときも、グレイシアは良かったわね、とアルフォンスに言った。人間によっては、得体のしれない人間だ、とエドワードを拒否する可能性もあったのだから、彼女の反応は実にアルフォンスにとってありがたいものだった。
「エドももう戻ってるわよ」
茶化すように言われ、苦笑する。時々、エドワードの帰りが遅いとアルフォンスが彼を迎えに行くことをグレイシアは知っているから、からかっているのだろう。
「あ、少し待って」
そのまま別れを告げ、アパートへと歩を進めようとしたがグレイシアに呼び止められる。彼女は一度店の奥に行った後、戻ってくるとアルフォンスに包みを渡してきた。
「林檎のケーキを焼いたのだけど、一人では食べきれないからもらってくれないかしら」
「ありがとうございます」
彼女は料理や菓子作りが非常に上手い。エドワードは甘いものがかなり好きだから、きっととても喜ぶだろう。
今の時勢では、彼女にも余裕はないはずなのに、あれこれと彼女は自分たちをいつも気遣ってくれる、その心遣いも嬉しかった。
「もらってくれて、私も嬉しいわ。じゃぁ、また明日ね」
「ええ、また明日」
今度こそ別れを告げてアパートへと進み、扉を開いた。
「ただいま」
けれど返事はない。また本を読みふけっているのかもしれない。エドワードは集中すると、何も聞こえなくなる。(……あれ?)
けれどすぐに料理の臭いがすることに気付き、不思議に思った。今日は自分が料理当番なのに、エドワードが作ってくれたらしい。それも、自分が作ろうと思っていた品と同じだ。彼の好物のシチューの香りがする。
台所に向かうと、案の定彼がいた。
「エドワードさん」
声をかけると、心底集中していたわけではないのか、くるりと彼が振り返った。
「お帰り、ハイデリヒ」
「ただいま。今日はぼくが食事当番のはずなのに、どうしたんですか?」
「本が丁度切りのいいところで読み終わったから、ちょっと早めに帰ってきたんだ。それで時間があったからさ」
言いながら彼はサラダを作る。父親と同居中、ほとんど食事は彼の仕事だったとかで、彼の手つきはとても慣れていた。
「あ、手伝います」
「良いって。シャワーでも浴びて来いよ。もうシチューはできてるから、出てきたら夕飯にしようぜ」
「すみません。ありがとうございます。それなら、次の食事はぼくが作りますね」
言うと、彼はまた笑った。少し寂しそうな笑顔は、彼をやはりはかなく見せる。そんな彼は男なのに、どこまでも綺麗という言葉が相応しかった。
「気にすんなって。オレが勝手に作ったんだからさ」
彼の言葉に甘えてシャワーを浴び、出てくるとすでに準備は整っていた。いかにも熱々のシチューは湯気をたて、美味そうだ。サラダの野菜は少々大ぶりだったが、特に問題はない。
「あ、そうだ。これ、今グレイシアさんからもらったんです。林檎のケーキだそうですよ」
「へぇ。じゃぁ、それが食後のデザートだな。明日にでも礼を言わないとな」
「そうですね」
そんな会話をしてから、しばらく食事に専念した。思い出したようにどちらかが口を開き、他愛のない話をする。その穏やかな時間の流れは、最高の贅沢だろう。
ただ、今日はあまり食欲がないのが唯一の難点だった。もともと食が細い方ではあるのだが、やはり残された時間が一年ほど、と知ってしまうとどうしても食欲などわかないものらしい。
せっかくエドワードの作ってくれた料理を残したくはないし、心配させるつもりもなかったから、どうにか平らげようとひたすらスプーンですくい、口に運ぶ。
シチューが好きと言うだけあって、彼の得意料理だから味は良かったがどうにも持て余した。
「ハイデリヒ」
「はい?」
名を呼ばれ、何事かとスプーンを止めてエドワードを見た。彼は少しだけ首を曲げ、諭すように言った。
「無理して喰うな。具合、悪いんだろ?」
「え、そんなことないですよ」
笑って否定したが、エドワードが表情を和らげることはなかった。
「嘘つけ、顔色悪いぞ。全く食わないのも心配だけど、無理して食うこともねぇよ」
どうやら余程、自分の顔色は悪いらしい。グレイシアも言っていたから、本当にひどい有様なのだろう。
「本当に、なんでもないですよ。ちょっと、疲れているだけで」
「ならさっさとベッドで寝とけ。あ、薬飲めよ」
かちゃ、とエドワードは微かな音をたててスプーンを置いた。彼の皿は綺麗に空になっている。
「もしまた食えそうなら、暖め直してやるからさ。グレイシアさんのケーキも後だ。疲れている時は寝とけ。……寝られるなら、寝るのが一番良い」
ここまで言われると、彼に何を言っても無駄だろうことがわかった。エドワードは何が何でもアルフォンスをベッドで今すぐ寝かせたいらしい。
基本的に頑固な人だから、何を言っても無駄だろう。いつだって、自分が何を言っても彼がそう、と決めてしまったら絶対に考えを変えない。
「眠くないかもしれねーけど、横になるだけでも違うからさ。な?」
反論する気にもなれなくて、こくりと頷く。少しばかりお節介と言えないこともないが、普段彼は人と関わり合いになるのを避けようとしていることを考えれば、一種の特別扱いには違いなかった。
(たぶん、当たり前なんだろうけど)
何しろ、彼の最愛の弟と姿は酷似しているのだから、エドワードにしてみれば弟の具合が悪いかのような錯覚を覚えるのだろう。
彼にとって、どこまでも自分は弟の面影を持つ人間でしかない。だからこそ彼の側にいられるのだ、とわかっているけれど、その事実が嬉しいと思う一方でとても複雑な気分にもなる。
立ち上がり、彼に気付かれないようそっと小さくため息をついた。その途端、少し目眩を感じてよろめく。エドワードが慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「平気です、すみません」
自分を支えてくれようとしているが、彼の方が自分より大分身長も低いし、少しばかり頼りない。だが、その気持ちが嬉しかった。
「一人で寝室まで行けるか?」
「大丈夫ですよ。今のはたまたまですから」
心配そうに尋ねられ、苦笑する。
エドワードには隠していたが、目眩など日常茶飯事だ。普段ならいくらでも平常を取り澄ますことができるのに、咄嗟に反応できなかった。確かに今の自分は疲れているのかもしれない。
「けど、やっぱ心配だからついていく」
言い切られ、もう一度苦笑した。断るのも悪いかと思い、彼の好きにさせる。このアパートへ無事に帰れたくらいだから、足取りはエドワードが心配するほど危なくもない。すぐに問題なく自室へと辿り着いた。
大人しくベッドに潜り込むと、エドワードは非常に満足そうな表情で微笑んだ。
「寒くないか?」
「平気です」
「そっか。何か欲しいもんとかあるか?」
言われても、先ほど食事をしたばかりだし、喉も渇いていない。寒くないから毛布も必要ない。そう考え、何も必要ない旨を伝えようと唇を開く。
「……」
けれど、欲しいものは何もない、と言うことはできなかった。心の片隅で、ふと思ったからだ。
本当に、自分はなにも欲しくはないのか、と。
その結論はすぐに出た。
自分の欲しいものなど、彼をこの場所に引き留めたときから。否、彼がある日突然、自分の元を去ったあの日から自分は知っていたはずだ。
「なんか欲しいのか?」
アルフォンスの顔を覗き込み、エドワードは優しげな表情で尋ねる。それは遙か昔、母親が良く浮かべた慈愛のそれ。
だからこそ、思い知る。エドワードが見ているのは自分ではない。記憶の奥に存在する、彼の最愛の弟の心配を、彼はしているに違いない。
それは仕方のないことだ。わかっている。
自分と彼は他人でしかない。自分にとって、彼の存在がどんなに大きくても、それが現実だった。
「欲しいものがあんなら遠慮無く言えよ」
尚も言われて、つい唇が動きそうになる。欲しいのは、あなただ、と。
誰よりも。何よりも欲しい存在。大事な存在。それが、あなたなのだ、と。
けれど言えるはずがなかった。それは彼にとって枷になるだけだろう。余計な負担など、かけられるはずがない。
そう思いながらも、一度開きかけた唇を再び閉じることはなかなかできない。少し迷った挙げ句、結局唇を動かした。
「……側に、いてくれませんか」
例え身代わりでも良いから、側に。
「わかった。だから、安心して寝て良いぜ」
あっけないほど簡単に頷き、椅子を動かすとベッドの傍らに置いた。そうして当然、とばかりに腰かける。
「良いんですか?」
自分とは少しばかり違う意味で、彼には時間がないはずだ。それなのに。
「別に構わない。それに、病気とか怪我とかしてる時って、確かに誰かが側にいると安心するよな。……オレも、そうだった」
その台詞に、そう言えば自分は彼との同居を提案したときに、一人だと心細いと言ったことを思い出す。
「側にいたのは、弟さんですか?」
その問いに、エドワードは寂しげに、そして懐かしそうに微笑を浮かべる。
「弟の時もあったし、母さんの時もあったし、ウィンリィ……、幼なじみの時もあったな」
基本的には健康なエドワードが病気や怪我をすれば、さぞかし周囲の人間は心配したことだろう。皆、彼の側を離れられなかったに違いない。
自分だって、彼の具合が悪かった時は心配で仕方がなかった。
けれど、心のどこかで彼がこのまま病で苦しむことを願っていた自分もいる。そうすれば、彼はここから離れない。ずっと、ずっと自分の側にいる。そんな風にも思った。自分はそんなにも最悪な人間だっただろうか。
ぞっとするほど、暗い思考。そんな自分を心底恥じた。けれど、そう思ってしまった事実は消えることがない。
「心配しなくても、寝るまでいてやるからさ」
「別に、心配はしてないですけど」
「そりゃ悪かった。まぁ良いから、とにかく眼だけ閉じてろ。そしたらそのうち睡魔がやってくるからさ」
言われて、彼の気配を気にしつつ目を閉じた。そうしてじっとしていると、時々彼が動く度に微かな音がする。ゆっくりと薄眼を開いて彼の様子をうかがうと、じっとエドワードは自分を見つめていた。
「こら、ズルすんな」
すぐにアルフォンスの視線に気づき、エドワードが笑いながら言う。
それはまるで兄が弟を冗談交じりに叱るような、そんな口調だった。
「もしかして、オレがいるとかえって眠れないか?」
「そんなことはないです。…ただ、エドワードさんが側にいるのが嬉しくて、寝るのがもったいないだけで」
本音を告げると、ほんの少しだけ彼の頬が赤く染まった。
「ハイデリヒ、そーいう台詞を真顔で言うな」
「え、なんでですか?」
「なんでも! だいたい、家にいるときはかなりの確立で側にいるだろっ」
確かにその通りだが、こうして彼が自分のためだけに側にいてくれる、という時間はとても貴重だ。
けれどそう言ったら、彼はまた怒るだろうか。それとも、哀しませるかもしれない。そう思うと言葉にはできそうになかった。
「……でも、嬉しいのは本当ですよ」
だからただ、その事実だけを告げた。こんなにも、手を伸ばせば届く近くに彼がいる。それが嬉しい。
今はまだ、彼は鳥籠の鳥。彼にとっては受け入れがたい現実が、自分にとってはとても嬉しい。このまずっと鳥籠の中にいて欲しいと思うほど。
本当なら、彼の幸福だけを考えたいのに、彼の幸福だけを望めない自分がいる。
「オレも、嬉しかったよ。この家に初めて来たとき、最初に見たのがハイデリヒの顔で、本当に嬉しかった」
「え?」
照れくさそうな表情で告げる言葉は衝撃的だった。
「元気でやってるかな、とか思ってたからさ。ドイツに来たときも、やっぱり思った」
それは、自分に対してだろうか。自分を通して、やはり最愛の弟のことを考えていたのだろうか。つい、そんな風に考える嫌な自分がいる。
「お前の故郷だって話は聞いてたから、偶然逢う可能性も全く考えない訳じゃなかったしな。だから、実際逢えて、びっくりしたし、嬉しかった」
自分だって、無論嬉しかった。けれど、彼は違う。彼は『アルフォンス・ハイデリヒ』に逢いたかった訳じゃない。
今も昔も、彼が逢いたいのは彼の弟。自分は名前しか知らない、『アルフォンス・エルリック』に、彼はひたすらに逢いたがっている。自分ではなく。
そう思うと、無性に悔しかった。仕方ないことだと、そうわかっていたのに。
「ぼくは、そんなにあなたの弟に似ていますか?」
気がついたら、そんな言葉が口から飛び出していた。
慌てて口を閉じたが、もう遅い。その言葉は紡がれ、彼は目を伏せた。
「……似てる。アルが、弟が成長したらきっとこんな風になってんだろうな、って思う。あいつとハイデリヒは目の色が違うし、性格も勿論違うけどな」
知っている。自分の瞳は青だ。綺麗な色だ、と何度か言われた。
けれど、今のアルフォンスは知っている。もっと綺麗な色を。
何よりも綺麗な瞳。見つめずにはいられないような琥珀の瞳を。
彼の弟もまた、そんな琥珀の瞳をしていると聞いたことがあった。
「ぼくの瞳も、あなたと同じ色だったら良かったのに」
そうしたら、ますますエドワードは自分を通して彼の弟を見るだろう。自分ではない『アルフォンス』を。それはとても悔しいはずだ。だが、今より一層、エドワードは自分を見つめるに違いなかった。
それは逆に、今より更に自分という人間の存在を彼の中から弱めてしまうに違いないけれど。
「なんでだ? オレ、ハイデリヒの瞳の色好きだけどな。故郷の空を思い出す」
その言葉に、小さく苦笑を浮かべた。彼の故郷。自分の知らない世界。話は聞いたことがあった。静かでのどかな、そんな彼の故郷。
その空の色に、自分の瞳は似ているという。
では、彼は自分を見る度に弟と、そして故郷を思い出すのだろうか。そう思うと、好き、と言われても素直に喜べそうにはなかった。
「エドワードさんの瞳の方が、ずっと綺麗です」
どんな宝石よりも、その瞳は綺麗だと思った。今も、見とれずにはいられない。なんてはかない、綺麗なひと。
「この世界じゃ珍しい色彩だな、確かに」
アルフォンスの褒め言葉に対して、そう言うと彼はまた微笑を浮かべた。大人びた、遠い微笑だ。
「オレよりも、アルフォンスはもっと綺麗な色してた。髪も、眼も」
エドワードの自慢の弟。当たり前に、彼は弟を褒める。間違いなく、心の底からそう思っているのだろう。
「でもぼくは、あなたの色が綺麗だと思います」
彼の弟など知らない。否、知っていたとしても、きっと自分は彼の方が綺麗だ、と思うだろう。こんなにも美しいひとを、自分は知らない。
彼以外の誰も、こんなにも今まで惹かれたことがない。
「そうか? なんかそう、真顔で言われると照れるな」
ほんのり頬を染め、困った様子で告げられたが、アルフォンスにしてみれば本音を告げただけだ。そんな彼を笑ってただ見つめた。
こうして彼を見つめることも、そう遠くない未来、自分はできなくなる。
だから今のうちに目に焼き付けておこう、と思った。
「……でも、本当に綺麗です」
誰よりも。どんな人よりも綺麗なひと。彼に逢えて、本当に良かったと思う。
「あんまり言うなよ。恥ずかしいだろ。それより、今は寝ろってば。元気になったら、またいくらでも話せばいいだろ?」
「そうですね」
完全な健康体になれる日はもう来ない。『いくらでも』話せるほどの時間も自分には残っていない。けれど、その事実をエドワードは知らないし、自分は永遠に知らせない。だから笑って頷いた。
「おやすみなさい、エドワードさん」
「おやすみ、ハイデリヒ」
挨拶を交わし、再び目を閉じる。そう簡単に睡魔はやってこないが、考えることはいくらでもある。眠ったふりをすることはそう難しくなかった。
目を閉じて、ひたすらにアルフォンスは考える。
ロケット理論のこと、自分の先の短い未来のこと、それから、エドワードの帰りたがっている世界のことを。
気がつけばエドワードの望むとおり夢の世界へと誘い込まれながら、それでも尚、アルフォンスは考える。
――――考えなければいけない、と思った。
すぐ側にある死が、自分を追い立てている、そんな錯覚から逃れるために。
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