いつか 鳥は 飛び立つ だろう
6
鳥の鳴き声が聞こえた。
その鳴き声に誘われるようにして、アルフォンスは目を開く。
いつの間にか眠っていたらしい。すでに日は昇っている。朝日がひどく眩しかった。
隣には、暖かな人肌。ちら、と視線を移すと、エドワードが寝入っている。すう、すう、と安らかな寝息が微かに聞こえた。
そんな彼を見ていると、自然に笑みの形に唇が曲がった。自分の残り寿命が少ないことを知り、そして恋を自覚したその日にこんな風になるなんて、人生とは何があるかわからないものだ。
どこか穏やかな気持ちで、そう思った。本来は、彼と肉体関係を持つべきではなかったのだろう。自分の病は移る心配などはないけれど、いずれ確実に死ぬ身だ。そうわかっているのに、抱くべきではなかった。
それなのに彼を抱いたのは、結局自分が弱いからなのだろう。彼を抱きたい、という欲望。手に入れたい、という願望。どちらにも、自分は負けた。おそらくはそういうことだ。
自嘲の笑みを浮かべながら、アルフォンスは窓を見た。鳥の鳴き声は聞こえるけれど、姿は見えない。鳥の姿を探すわけでもなく、ただ窓を見続ける。
彼を、鳥籠の鳥のようだと最初に思ったのはいつだっただろうか。
綺麗な綺麗な、籠の鳥。元の世界に戻りたいのだと、そう訴える彼に対して、籠の中の鳥でいて欲しいと、そう思いもした。
今でも、そう思わないと言えば嘘になる。
けれど自分は知っている。彼は信念を貫くひとだ。迷いながらも、前へ進む強さを持ったひとだ。
いつか彼は彼の望む世界へと戻るのだろう。大切な彼の弟の元に。
そう、――いつか。
いつか、鳥は飛び立つだろう。
自由という名の翼を羽ばたかせ、鳥籠から逃れ、広い空に。帰るべき場所に、戻るのだろう。
自分は空へ行くことはできない。その為の翼がなかった。
けれど。
それならばせめて、彼が飛び立つために役立ちたいとも、今は思う。
自分の時間はあまり残されていない。だからずっと、ロケットを作らなければ漠然と思っていた。それが自分の生きた証なのだと、そう思っていた。
けれど違う。そうではなかった。
(やっと、わかった)
ようやくわかった。自分はどうして、ロケットを作るのか。作りたいのか。
視線を窓からエドワードに戻し、そっと彼の髪に触れた。金糸の髪は、もつれそうなほど細い。
(きっと、ぼくは)
そう、自分は。彼に出逢うために。彼と出逢い、そして彼が望む世界へと戻すために。
その為に今という時間を生きている。
死を自分は恐れていた。それは必ず訪れる虚無だった。
だが、今なら違うと言い切れる。彼に出逢ったことで、自分の生に意味が生まれた。自分が生きた、その証に自分は彼を還すのだ。ロケットを作るのが目的ではなく、彼を帰すのが、自分の目的になる。願いになる。
(だから)
彼の望みが叶うのならば、自分の生には確かな意味がある。
(だから、必ずあなたの願いをぼくが叶えてみせる)
それが、自分が生まれてきた証。そして死んでいく意味。彼に残せる、たった一つのはなむけ。
今なら、もう死は恐ろしいものではなかった。それは孤独を産むことはない。確実にやってくる闇でもない。こうして夜が終わり朝が来るように、自然の理でしかない。その理の欠片として、彼の望みを叶えられるのならば、何も恐れるものなどなかった。恐怖するとすれば、自分がその夢を叶えられない、そんな現実が存在する時だけだろう。
時間は相変わらずない。きっと自分は焦るだろう。けれど、必ず自分は自分の、彼の願いを叶えてみせる。
それは確かな決意だった。何よりも強い、決意だった。
その日は決して遠くない。彼が旅立つ日は。飛び立つ、その時は。
しばらく彼の髪を撫でていると、やがてエドワードが身じろいだ。
「……ん……、あれ、ハイデリヒ……?」
「おはようございます、エドワードさん」
不思議そうな表情で自分を見つめていたが、やがて昨日の出来事を思い出したのだろう。みるみるうちに彼の顔が朱に染まった。
「あの、オレ、寝て……?」
「ぼくも寝てました。今、起きたところです。それより、呼び方間違えてますよ」
「え。……あ、えーと。……アルフォンス」
照れた様子で名を呼ばれると、こちらまでこそばゆい気分になってくる。それは今まで知る幸福の中でも、最上級のような気がした。
「はい」
だから、笑ってアルフォンスは答える。自分の残り時間は少ないけれど、少ないからこそ、大事にしようと思った。
「ちゃんと、言っておこうと思うんだけどさ。オレ、……オレも、アルフォンスのこと、好きなんだと思う。あーいうことしたわけだけど、後悔とか、してねぇし」
難解な理論ならすらすらと言う彼が、途切れ途切れに言う台詞が愛しく、ほんの少しだけ切なかった。
そして、それ以上に嬉しいと思った。
「それに今、なんか泣きたいくらい幸福だって思うんだ。だから、今まで気付かなかったけど、オレもやっぱり、アルフォンスに恋してたんだと思う」
必死の形相で告げる彼を抱きしめて、嬉しいよ、と囁いた。彼もアルフォンスの背中にすがりつくように抱きしめ返す。まるでオレも、とでも言いたげに。
(忘れない)
忘れない。何一つ。彼と出逢ったこと、一緒に暮らしたこと。彼に恋したこと。彼を綺麗だと、そういつも思ったこと。
――――自分はとても、彼に出逢えて幸福であったことを。
(絶対に、忘れない)
最後のその瞬間まで、決して忘れない。
そうして。
彼が飛び立つ日には、笑って彼を見送ろう。それは自分の願いが叶う日。彼の願いが叶うときだ。少しだけ寂しいけれど、彼の門出を祝福し、きっと自分は心の底から笑うことができるはず。
それはきっと遠くない未来。必ず来るだろう未来。
その前に己の寿命が尽きることだけは、あってはならない。
けれど、もしも彼が望みを叶えた暁には。飛び立てたその姿を見ることができたのなら。
思い残すことなど何もない。できるなら、彼に自分の存在を覚えていて欲しいと。彼の中で、自分を夢の住人にしないで欲しいとは、思うけれど。
「エドワードさんが、好きです」
だからこそ、愛の言葉を囁く。彼が自分を、自分の声を。体温を。少しでも良い。覚えていてくれれば良い。それはきっと、単なる自分のエゴイズムに過ぎないけれど。
「……オレも」
小さな声で、彼も頷いた。更に強く、アルフォンスはエドワードを抱きしめる。彼の言葉は正しい。確かに、泣きたくなるほどに幸福だった。
この思い出を。彼と出逢った思い出を携えて、自分は冥府の門を潜る。
その未来を思っても、どこまでも気持ちは穏やかだった。きっとその瞬間すら、自分はこんな風に穏やかに、静かに。
自分は精一杯生きたと、笑えるだろう。――――笑って、逝けるだろう。
その遠く、近い未来を思いながらひたすらにエドワードを抱きしめ続けた。言葉など、今は必要なかった。
聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。今も大空を羽ばたいているのだろう、鳥の鳴き声だけ。
それがエドワードにとって福音であれば良いと願いながら、アルフォンスはそっと彼の額に口づけた。
END