偽りの月<後編>
翌日は当然、最悪の空気だった。
「………」
何しろ、一馬は正直だった。一応平静を装っているつもりなのだろうが、
それは結局「つもり」でしかない。
一馬と結人が顔を合わせた瞬間に、すでに結人は事態を確信したに
違いない無かった。
そうして、そんな結人が自分の所へと駆け寄るのは仕方ないことだろう。
「も、もしかして…」
「もしかしなくても、多分結人の予想通り。いちゃつく場所が悪かったね」
英士の台詞で、どうして一馬が知ってしまったのかを悟ったらしい。
「…マジ?」
「俺が嘘つくと思う?」
しかも、ついても少しも得にならない上に、楽しい気分にもなれない嘘を。
「…思わない」
神妙な表情でそう言い、それから途方にくれたような顔をして自分を見
上げてくる。
「やっぱりさ、まずいよな?」
「主語が抜けてるよ結人。…どうしようもないと思うけどね。今の一馬が、
どれくらいナーバスな状態かは、結人も分かってると思うけど?」
実際、主語などいれなくても、彼の言いたいことなどわかりきっている。
このままにしておくのは、『まずい』に決まりきっていた。
しかし、どう考えても当事者たる結人が一馬にフォローを入れた所で、
現時点では無意味なのは明らかだ。今の一馬に何を言っても、きっと
一馬は冷静にはなれない。ただ、傷つくだけだ。ひたすらに。
けれど、一方でそれならと、放っておくわけにもいかないだろう。
「えっとさ、すごく無視の良い話なんだけどさ」
「了解」
結人が言いたいことはわかっていたから、彼が全てを言い切らないうち
に了承する。
……結局、どうするのか、なんて考えるまでもないことなのだ。
結人相手では、どうしても一馬はいつもの彼でいられない。それなら、
自分が話すべきなのだろう。それは義務ではなく、自然なことだ。結人が
自分に甘えているわけでも、一馬がただ単純に我が儘なわけでもない。
それが、自分たちのバランスだった。
―――これからも、そのままの関係でいられるかどうかは、わからない
けれど。
「ごめん。悪ぃな、英士」
「仕方ないでしょ。タイミングの問題だったわけだし」
心底、申し訳なさそうな顔をして謝罪する結人に対して、文句を言う気
にはなれない。例え結人が前もって一馬に、事実を伝えていたところで、
こういう展開になっていた可能性は極めて高かったから余計に。
―――本当に。
大切な、友人なのだ。一馬も、結人も。とても大切な友人だと思う。
だから、将の人を見る目は確かだ。それは素直に認めざるを得ない。
「ただ、それでもどっちみち、当分はあのままかも知れないとは思うよ?」
「うん、分かってる。仕方ねーよな」
頭では、きっと一馬だって理解している。自分のように。それでも、感情
は頭についていかないのだ。
無論、自分が話したところで良い方向に行くとは限らない。それでも話さ
ないよりはマシだろう。一人で悶々とするよりも、誰かと会話した方が少
しは気が晴れるだろうから。
「それでも、やっぱり俺、一馬の事も大事だからさ」
「それは一馬も分かってると思うよ」
分かっているから、余計に辛いのだ。それは、決して口にしてはいけない
事実だけれど。
けれど、そんな話をいつまでもしているわけにもいかない。
現実として、今はやることが別にあるのだから。
「ま、とりあえず今はサッカーの方に集中するのが先決だね」
妥当な台詞だったのだろう。結人も頷き、直後に練習開始のホイッスル
が鳴った。
―――そうして、英士達にとっての日常が始まる。それは少なくとも、
きっと変わることのない日常で、その事実が奇妙なほど嬉しかった。
◇ ■ ◇
練習後、一馬に自分の家に来ないか、と誘った所、あっさりと彼は頷いた。
練習中もぎこちなく、結人の方を決して見ようとはしない(と、言うよりは
見られないのだろう)彼だったが、とりあえずそれでは話す気はある、という
ことのようだ。
電車を乗り継ぎ、家への最寄り駅に到着する。それまで、ずっと無言だった。
お互いに。
一馬としても、何を言われるのか分かっているのだろう。無理に明るい会
話をする気にもなれない。
だから、ただ沈黙の中歩いた。意味もなく、空を見上げる。昨日と同じく、
今日も三日月が見事だった。
周囲はしん、としている。冴えた空気は、寒いのは当然だが嫌いな雰囲気
ではない。
けれど家まで後少し、というところで変化が起きた。
たったった、という人の走る、規則正しい音。
最初は気にも留めずにいたが、それが近くに響いて、走っている人物が誰
なのかを知って驚愕した。
「…風祭」
つい、名を呼んでしまったのは何故だろう。その声か、視線に気が付いたの
だろう。にこり、と将は見慣れた笑顔を見せた。
対して一馬は、と言えば、固まってしまったかのようにじっとしている。
「こんばんは」
「偶然だね。この辺、近所じゃないはずだよね、風祭は」
冷静を装って、そう声を出す。
確か余り家は近くないはずだ。明確な将の住所などさすがに覚えていない
けれど。
将が走っていた、それだけの事実はさして不思議でもない。基本的体力を
つけるためのランニングなど、珍しくないことだから。
「偶然だけど、偶然じゃないんだ」
困ったように、彼は笑いながら言った。
「若菜君に、こっちに郭くんの家があることは聞いてたから。…今日は、それで
じゃぁなんとなくこっち走ろうかな、って思って」
まさか会えるとは思ってなかったけど、と続ける。
成る程、それなら偶然だが偶然ではない。いつもなら、決して走らない道のり
を、なんとなく将は走っただけなのだろう。
「若菜君、すごく楽しそうに郭くんの家に行った時のこと話してくれて。…あ、勿
論、真田くんの家に行った時の話しもだけど」
にこにこと。笑いながら彼は言う。笑顔は決して珍しくない。いままでも、ずっと
彼は笑っていた。
けれど。
(卑怯だね、風祭)
どうして、そんなにも。
そんなにも、幸福そうに結人と会話したことを話すのか。笑顔は笑顔でも、普段
のそれとはまるで違う。
そんな風に結人のことを大事そうに語るなんて、なんて卑怯なのだろう。それだけ
で、敗北感は途方もない。
……本当に、分かり切っていたことだけれど。
同じ事を思ったのだろうか。ずっと、沈黙だけだった一馬が口を開いた。それは
多分、決死の一言だったに違いない。
「…結人のこと、…好きなのか?」
どんな気持ちで、一馬はその台詞を口にしたのだろうか。
ようやくの思いで口にしたに違いない。
答えなんて、一馬も知っていたに違いないというのに。
「うん!」
簡素な、その返事と圧巻するほどの、笑顔。
――――――まるで、太陽のような。輝くような、それ。
「…そうか。それなら、良い」
小さな声で、一馬が言う。俯いていて表情は見えない。けれど、微かに一馬が
震えているのが分かった。
「…ごめん、足止めしたね」
やんわりと詫びを言うと、とんでもない、と将は首をふった。その後に当たり前
の流れで、また次の練習の時逢おうね、と当然の挨拶で別れを告げた。
将が走り去る様を、ただ目が追う。見るべきではきっとないのに、目が離せな
かった。
「…一馬」
再び周囲が静寂に包まれた頃、隣にいる友人に声を掛ける。一馬は押さえ切
れない嗚咽を、そっと漏らした。
「…っ」
乱暴に、流れた涙を腕で拭ったのが見えたが、一馬に掛ける言葉など、英士
には見つかるはずがない。
あまりにも決定的な失恋。
分かっていたはずなのに、それでもこんなにも切ない。絶望的な気持ちになる
くらいには。
「…んで、泣いてるん、だろ、…俺」
途切れ途切れに、どこか不思議そうに、可笑しそうに一馬が呟いた。
「……当然だと、思うよ」
「そっか、…」
何がどう、当然なのか。口にはしなかったが、一馬は頷いた。
―――親友は恋を手に入れ、不自由になった。
恋に絡め取られ、そしてだからこそ幸福なのだろう。
そして自分は、―――自分たちは、自由なままだ。
それは喜ぶべき事態のはずだった。きっと、将に出会いさえしなければ永遠
にそう信じていられただろう。
(本当に)
空を見上げながら、思う。
(本当に卑怯だよ風祭)
あんな笑顔を見せられて。どうして、諦めることができるだろうか。
けれど、あんな笑顔を見せるのは、結人故なのだと、そんな事実も同時に知
らしめる。
なんて、残酷な人間であることか。
冴えた空気。空には、三日月と星。綺麗な、綺麗な空。
だからだろうか。一馬のように、泣きたくなるのは。
それが将の太陽のような笑顔故なのだから、皮肉な話だ。
――――――とても。
将の笑顔は、どこか結人の健やかな笑顔にどこか似ている。どこまでも前向
きな、力強い輝き。
一般的に、お似合い、というべきなのだろう。無論、同性、という特殊性は確
かに認めるべきではあるが。
けれど、きっと二人は上手くいくだろう。二人でなら、きっと苦難を乗り越えて
いける。それだけの根性は二人とも十分にありそうだった。
そうして、お互いがお互いに、プラスの方向へと促し、歩いて行くに違いない。
―――互いが、互いの為の、…互いの為だけの太陽なのだから。
「……風祭のヤツ、笑ってた」
ぽつり。呟くように、一馬が言う。
「そうだね」
誰よりも、幸福そうに彼は笑っていた。
本当に、切なくなるほどに。
――――――結人だけに。
例えどんなに努力しても、決して自分や一馬の言葉を思い出して、将はあんな
風に微笑んではくれないだろう。どんなに、願ったとしても。
「…どうして」
そっと、一馬は息を吐く。どこか自嘲気味に。
「どうして、結人なんだろうな」
繰り返し、考えずにはいられないその疑問。どんなに考えても無駄であろう、
その疑問。自分も一馬も、いつでも考えている。
答えも多分、いつでも同じだけれど。
……本当に。彼らだって、分からないに違いない。どうして、互いであったのか、
など。
それでも、思わずにはいられないのだ。
――――――何故、将が選んだのは結人であったのか、と。
彼が選んだのが、結人でさえなかったのなら。
……きっと自分は、どんな手を使ってでも彼を手に入れようとしただろう。
それくらい、自分だって――――――彼に恋している。
卑怯な手を使うことだって、きっと自分は躊躇わなかった。将の恋人が、結人
や一馬でないならば、躊躇う理由などどこにもない。それほどまでに、切望して
いた。
けれど現実として、将が選んだのは結人なのだ。結人だけを見つめて、そして
微笑む。
同じ表情で、同じ瞳で自分を見ることは決してないだろう。永遠に。どんなに望
んでも、それは手にはいることなどありえない。
もしかしたら、手に入らないからこそ、余計に欲しくなるのかもしれないけれど。
けれど、どちらにしろその答えは同じだった。自分は将の太陽などにはなれは
しない。
どんなに望んでも。努力しても、決してなれない。
太陽どころか、月にさえなれはしないだろう。
綺麗な月夜が、こんな気分ではそれすら皮肉に思えてくる。
太陽にも、月にも自分はなれない。
(なれるとしたら、せいぜい)
くすり。自然に、苦い笑みが零れた。
―――なれるとしたら、水面に浮かぶ、空の月を映し出したそれがせいぜい
だろう。
風が吹いただけで姿を歪める、その脆弱な偽りの月。
太陽の片割れに恋い焦がれても、それはあまりに遠すぎて、気が付かれること
すらない。
……実際、彼らに気が付かれるわけには、いかないけれど。
だからこそ、自分は自由なままだ。
(……違うか)
再び、苦い笑みを浮かべる。それは自嘲の笑みだった。
(囚われてる。俺だって)
将という存在に恋い焦がれる以上、やはり自由ではないのだ。きっと。それでも、
その思いを止めることなどできはなしないのだと、知っているから質が悪い。
隣で、一馬が小さく溜め息をついた。
「英士。俺、やっぱり帰る」
「…一馬」
「なんだよ。そんな顔しなくても、…ホントは、わかってるよ」
素直な彼は、笑みを浮かべることは出来ない。けれど、だからこそ真実の言葉を
口にする。
「だけど、今はちょっと、なんつーか心の整理がしたいから。それだけで」
「…うん、そうだね」
心の整理。そんなものが、果たして自分には出来るのだろうか。
いつか、この思いは風化するのだろうか。
……風化、してくれるのだろうか。
「じゃーな、英士」
「じゃぁね、一馬」
お互いに、何気ない口調で。いつも通りを繕って、別れの挨拶を告げる。
けれど、確かに自分たちは変わっていくだろう。それは多分、当たり前の変化
なのだ。
どんなに友人としてお互いが大事でも。その気持ちは変わらなくても。
何かが、確実に時間と共に変わって行く。
それが幸福なのか不幸なのか、今の英士には分かるはずもなかった。
それでも、明日は来る。必ず。
小さく、息を吐き、それから英士は歩き始める。
空を見上げる気にはもうなれなかった。
きっと、自分は三日月が嫌いになるだろう。何の罪もない、美しいだけの月を。
太陽を嫌うことが出来ない以上、それは精一杯の、自分の子供じみた、精一杯
の抵抗なのだ。
歩き続けると、小さな水たまりが見えた。
きっと、水面を見ればあの三日月が写っているのだろう。昨日と同じように。
けれど、それを見ることもなく。視線を送ることすらせず、英士は歩いた。
ただ、ひたすらに。
――――――偽りの、その月に背を向けて。
了