ようやく開放されて外へと出て行くと、来た時には青一面だった空は暗闇へと代わり、星が瞬いてた。
 今の季節柄当然だが、気温も下がり、吹く風が冷たい。だが、今はそれが心地良いと思った。
「悪かったね、疲れたろう?」
 言いながら彼に視線を落とすと、エドワードは肩をすくめた。
「驚いた。あんなに時間かかるもんなんだな。もっと簡単にやめられるかと思ってた」
「それは相手が君だからね。鋼の錬金術師は有名で、腕も良い。更に言えば、市民にも人気がある。軍部としては話したくない人材だったからね」
 現在の軍部は混乱している。その混乱は当分続くだろう。そして一方で市民達は軍対し、明らかに不信感を抱いている。
 大半の市民達は知らないとはいえ、この国の起源を思えばそれはあまりにも当然のことだった。真実を知らなくても、軍の上層部が瓦解すれば、どんなに隠したところで完全に覆えるはずもない。
 その状況において、市民にある程度以上名を知られ、更に評判が良い国家錬金術師の存在はあまりにも貴重だ。やめたい、と彼が望んでも引き留めるのは道理としか言いようがない。
 これが名の知られていない国家錬金術師なら、事は簡単に済んだ。申し入れ、許可が下りるまで、そう時間はかからないだろう。
「『鋼の錬金術師』は特別なんだよ」
「特別?」
「そう、特別だ。だから、あれほどまでに必死で滑稽なほど、君を引き留める。撤回させようとする。国家錬金術師の特権を殊更強調し、何度も告げるわけだ」
 潤沢な資金は、確かに彼にとって必要だった。様々な資料を見られることにも、大きな意味が存在していた。身分が高いこともだ。
 けれど、それは過去の彼、願いを叶える前の彼にとって必要だったもので、今の彼にとって、それらは全て無意味でしかない。
 だが、引き留めた人間達にとっては理解できるはずもなかった。エドワードは彼らの目から見て、才能があるらしい健康な子どもでしかない。査定に落ちたわけでも、戦争で心を病んだわけでもない。辞する理由をいくら聞いても、彼らには理解できない。彼らの価値観の中では、それこそが当然なのだから仕方ない。
 願いを叶えるために、国家錬金術師になる必要があった。
 願いが叶ったから、国家錬金術師を辞したい。
 エドワードの理論は単純明快だ。ロイも、部下達も納得した。
 けれど、一部の人間は考える。
 願いが叶って尚、国家錬金術師のままでいたとして、何の問題があると言うのか、と。
 その考え方自体に、不満も反論もない。個人の自由だ。
 だが、少なくともエドワードはそう考えてはおらず、平行線にしかならない。
 彼らにしてみれば、『自分が鋼の錬金術師の愚行を食い止めた』という状況も魅惑的だろが、所詮夢は夢でしかなかった。
「その、……悪かったな」
 突然、小さな声で謝罪の言葉を告げられ面食らった。
「忙しいだろ。今、かなり」
 ぼそぼそとと告げる彼に、微笑を向けロイは口を開く。
「別に構わないよ。この日が来ることは、わかっていたからね」
 そう。わかっていた。彼が手足を取り戻し、アルフォンスが肉体を取り戻したと知った日から。この日は必ず来るだろう、と。そう知っていた。
「けど、本来ならあんたは来なくて良いって言うし」
「そんなに気に病むほどのことでもないよ」
 確かに、『鋼の錬金術師』以外の相手ならば、自分まで一緒にこの場へと赴く必要はなかった。だが、年若い彼の場合は後見人の自分も同行必須となる。
 とは言え、東部にいた頃ならばともかく、今の自分は中央勤務だ。移動距離も時間もたいしたことはなく、エドワードがそんなにも恐縮する必要もない。
 自分にしてみれば、それはささやかな時間過ぎて残念に思えるほどだ。
 もっとも、エドワードとしては予想以上の長時間拘束されたわけで、疲れを感じているに違いない。
 自分に向かって国家錬金術師をやめたいと告げたのが昨日。その日の内に数枚の書類さえ書けば事が終わる、と彼は思っていた様子だった。だからこそ余計に、彼らしくない態度で謝罪を告げてきたのだろう。
 だが、彼が気に病む必要など欠片もない。それに、こうして彼と会うのは最後になるかも知れない。その可能性は、とても高いはずだ。
 エドワードとしてはアルフォンスと共にいつかまた挨拶に来る気でいるらしいが、それが実現するかはわからない。彼には彼の日常が、生活が待っている。いつか来ることがあるかも知れない、程度に考えた方が良いだろう。
 だから、自分が彼に何かしてやれるのもこれが最後だ。
 多少難航はしたが、結果的に書類は無事提出した。それはつまり、自分と彼を繋ぐ糸が切れ事を示している。国家錬金術師『鋼の錬金術師』はもう、存在しない。彼はその名を返上したのだから。
 こうして自分にめずらしく殊勝な態度を見せているのは『鋼の錬金術師』ではなく、エドワード・エルリックという少年だ。
「その。……あ、ありがとな」
 更に彼らしくない言葉に、正真正銘言葉を失った。
 目を見開きつつ彼を見つめると、顔を背けてエドワードは言う。
「その。アルが! そう、アルがありがとうって、そう伝えてくれって言ってたんだ。あんた、見舞いにって本とか色々送ってくれただろ。だから」
「……そうか」
 少しばかり慌てた様子で言いつのる彼に、浅く頷く。きっと彼は知らないのだろう。アルフォンスはすでに自分に直接、電話で礼を告げている。
 だからその言葉は、アルフォンスからのものではなく、彼の言葉であるはずだ。だと言うのにそう素直に告げない当たりが、実に彼らしく、そんな彼が愛おしいと思う。
 大人びたとは言え、彼はまだ子どもだ。そんな子どもに、自分は恋をした。
 そんな自分を知ったのはいつの事だっただろうか。つい最近のことのようにも、遠い昔のことのようにも思える。
 何故、この子どもなのだろう。
 そう何度思ったことだろう。自分の本来の好みからは性別からしてまるで違う。だと言うのに、気がつけば惹かれていた。どんなにそんなはずはないと否定したところで、現実は何一つ変わらない。
 これは恋だ、と。
 認めてしまってからの方が、いっそ楽だった。諦めにも似た心境で、彼を見守り、幸福を願った。――願っていたはずだった。
 自分は彼の側にいるべき人間ではないと知っている。成就など望めるはずもない。
 この日が来れば、自分は彼を見送るだけだ。見送らなければならない。自らの感情を認めた日から、きっと自分はこの日が来ることを恐れ、忌んでいた。
 きっと自分は、この感情を忘れることはないだろう。新しい恋をすることも、おそらくは。
 それは確かな予感だ。理由も理屈もなく、ただ漠然とそう悟った。
「アル、すげぇ喜んでた」
 ロイの思考を知らず、エドワードは笑顔を浮かべ、そう言った。
 実際、電話の向こう側で、アルフォンスの声は弾んでいたなと思い出す。
「そうか。それは良かった。花束よりも君たちには本の方が喜んで貰えると思ったが、正解だったようだね」
「花束は読めないし食えもしないもんな!」
 情緒が皆無の台詞に、実用性を重視して良かったとしみじみ内心で思った。
「面白い本はあったかい?」 
「あぁ、すげー夢中になって読んだのがあっ……、いや、えっと、オレじゃなくてアルが夢中になってた!」
 アルフォンス宛の見舞い品ではあるが、事実上は彼宛でもあった。楽しんで貰えたなら何よりだ、と思う。
「それは良かった」
 時には彼の望む資料を、情報を渡してきた。けれど、これからはそんな機会ももうない。
 だからただ、ロイはエドワードを見つめる。彼のことを忘れることは生涯ないだろう。そう、そんなことができるはずもない。こんなにも輝かしく眩しい存在を。
 今日が来なければ良いとずっと思っていた。
 今日が来ることを彼のために願っていた。
 それはどちらも自分の中で真実だ。相反する感情は焔に等しい。ゆらゆらと揺れ、心を焦がす。
 忘れない、忘れられない存在。
 その姿を見つめ、ひたすらに微笑む。それはひどく甘く、――――苦い時間だった。この上ないほどに。




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