夢寐の楽園
8
あの男が、いた。
隻眼の男は自分を見て、薄く微笑む。そんな彼を見ながら、自分は夢を見ているんだな、と思った。
今まで、どんなに願っても逢えなかったのにと、どこか不思議な気分になった。
ロイは相変わらず軍服を着用している。改めて見てみると、この男は軍服が非常に良く似合っている。少なくともアメストリスのロイにとって、軍人はこれ以上ないほど適職なのだろう。その過去が、どんなに凄惨で。これからの未来が、どんなに困難に満ちているとしても。
こちら側のロイを見たときに、本当に自分は驚いた。あまりにも似ている二人。けれど、こうしてアメストリスに存在するロイを見ていると、それは少しだけ、自分の錯覚が含まれていた、ということが分かった。
顔は確かに同じだ。けれど、なんと言えばいいのか。瞳の輝きの種類が違っている。
目の前の、軍人でしかあり得ない男は過去故からか、どこか暗い眼をしていた。その眼に、自分はおそらく惹かれたのだろう。今も、見つめずにはいられなかった。
ロイは何も言わない。ただ、微笑んでいる。穏やかな、けれど遠くを見るような瞳だった。
(元気、みたいだな)
良かった、と心から思った。
きっと、相変わらず、としか言いようのない生活をしているのだろう。
何か言おうと思い、口を開く。けれど、何も言葉は思い浮かばなかった。
自分はもう、アメストリスには戻らない。戻れない。
そう決めたのは他ならぬ自分自身。後悔はしていない。ただ、迷わないつもりだったのに、迷いは確かに生じていた。
(だけど、だから。今度こそ、もう迷わない)
彼に恋している。
恋していた。
それは変わらない現実。たぶん、自分が生きている限りずっと。忘れられるはずもない。
忘れる必要もないのだろう。それは不可能なのだから。
彼はあまりにもエドワードにとって鮮やかな、鮮やかすぎる人間だった。決して、もう一人のロイの言うような、夢の中の人間ではなく。
彼は、彼らしく生き続けるだろう。
自分はその姿を見ることはできないけれど、寂しいとは思わない。
自分も、自分らしく生きるだけだ。そうしなければ、きっとロイは自分を叱咤するか、嘲笑するだろう。そういう男だった。
そんな男に、自分は恋をした。幼い、不器用な。けれど、確かに恋だった。
さようなら、と。まだ、今も笑う男に告げることはできない。
だからエドワードはただ笑った。目の前の男と同じように。
もう、夢でも逢えないかもしれない。それでも、忘れない。絶対に、忘れないから。
ロイの姿が徐々にぼやけてきている。それでも、最後まで彼は笑っていた。じっとエドワードを見つめながら。
涙が一筋、頬を流れた。けれど、哀しいとは思わない。
――逢いたかった。とても、逢いたかった。
だから逢えて嬉しい。それで十分だと思った。
そしてだからこそ、夢は終わらなくてはならない。夢を見るだけで、人は生きていけない。
(起きないと、な)
夢は優しい。懐かしい。
だからこそ、終わりを告げよう。自らが生きると決めた現実へと自分は帰る。
ふと、誰かに名を呼ばれたような気がした。きょろ、と周囲を見回す。だが、そこには誰もない。完全にロイの姿も消えてしまった。
――――エドワード。
今度ははっきりと聞こえた。ロイの声だ。アメストリスの、ではなく、こちらの世界。アメリカに住まう、ロイの声。一度も、アメストリスのロイは自分をその名では呼ばなかった。
声の方向へと、エドワードは歩き出す。
「エドワード」
今度は、はっきりとその声が聞こえた。それも、とても間近に。
……そうして。
ゆっくりと、エドワードは目を覚ます。正面に移るのは、ロイの顔だった。無論、アメストリスの、ではなく、この世界の。
「エドワード」
もう一度、彼は自分の名を呼んだ。
「……何?」
微かに口を動かし、返事をする。すると、呼んだくせにロイは少しばかり困ったような表情を浮かべた。
ちら、と視線をそらしてぼんやりと天井を見た。見知らぬ天井だ。やけに豪奢なシャンデリアがきらきらと輝いている。
ここはどこだろう、と思い、それから思い出した。自分は、確かロイに薬を盛られた。そうして。
「……っ」
身を起こしたいのに、それができない。あまり力が入らなかった。少し身体がだるい。それでもどうにか時間をかけて起きあがり、自分の状態を確かめた。
着衣は乱れはない。ただ、靴が脱がされていた。どうやら危惧するようなことは何もなかったらしい。
「なんのつもりで、薬なんか盛った」
「なんだ。もう完全覚醒とは、随分寝起きが良いんだな」
問うと、ロイは少々意外そうに言った。
「気分はあんまり良くないけどな」
周囲を確認すると、知らない部屋だった。自分はずっとベッドに寝かされていたようだ。広い、大きなベッド。どうやら、寝ている間に寝室へと運ばれたらしい。
「良く寝ていたよ。……本当は、君の心配した事柄を実行するつもりだったが、その気が削がれるくらい、良く眠っていた」
「そりゃ結構な事だな」
その台詞にやっぱり、と思った。寝ている人間相手に事に及んだとしたら、最悪の人間だ。とりあえず、思い止まってくれたのはお互いにとって幸いだった。
「寝ている相手に不埒を働くのはどうにも気が進まないものだな。起きてくれて良かった」
「……あんた、まさか」
不穏な台詞に眉をひそめる。まるで、寝ている相手では気が進まないが、起きている相手ならば不埒を働いても良い、と聞こえた。
ぎし、とベッドが微かに鳴った。ロイがベッドに乗り上げたからだ。
「そのまさか、だよ。エドワード」
エドワードの顔を挟むようにして、彼の両腕が置かれた。真正面には、彼の顔。逃さない、とその眼が訴えている。本気だと、それだけで理解できた。
……理解など、少しもしたくはなかったが。
「冗談」
「冗談だとしたら、この上なく私は趣味が悪い男だな」
くすりと笑って告げる台詞に、けれどエドワードが笑えるはずもない。
「冗談じゃないとしたら、もっと趣味の悪い男だ」
「ふむ。それもそうだな。だが、君は待っているだけでは手に入りそうもない。夢などに、君を取られてたまるものか」
告げる言葉は、静かだった。だが、その目には嫉妬がちらついている。エドワードがアメストリスのロイに恋している、という事実が気に入らないらしい。
「……あんたにとっては夢でも、オレにとっては夢じゃない。第一、あんたとオレは『友人』だろ?」
「友人はやめた。私は君とそんな清くてこそばゆい仲にはなれそうにない。存外、私は短気だったらしい」
そういえばあの男も短気だったな、とどこか悠長に思った。それでも、待つときは待つ男だったような気もするが、思い出してみると彼と初めて夜を過ごしたときもなし崩しというか、気がついたら事が終わっていたような気がする。
(……でも、別人だ)
あの夢を見た今だからこそ、はっきりとそう断言できる。ロイの瞳は、もう一人のロイとはやはり違った。
贅沢を知り、恵まれた日々を送るこの男には、闇の底にいるかのような、そんな暗い光はない。
アメストリスのロイは違った。イシュヴァールの英雄は、誰よりも闇をその瞳に持っていた。こんなにも、恐れを知らない瞳をしていなかった。
良く見れば分かったことだ。こんなにも、彼と彼は違うのだ、と。他の誰でもなく、自分なら分かって当然だった。どんなに姿形が似ていても。例え同じだとしても、生きた背景が違う。そんな、当たり前の事実。
その事実から、今まで自分は目を反らしていたのだ、と今更ながら、エドワードは思い知る。
「……それでオレを抱いたら、満足すんのかよ?」
問うと、ロイは笑った。
「満足など、するはずがないだろう。だが、少なくとも君は私を信じる気になるかもしれない。私が、君に真剣に恋していると。勘違いなどではないと」
「あんたを信じさせる手段としては、これ以上ないくらい最悪な手段だけどな」
真っ直ぐに彼を見つめて、はっきりと告げる。
「なら、どうすればいい、私は」
彼は問う。彼もまた、真っ直ぐに自分を見つめていた。漆黒の瞳。自分が恋したロイとは違う輝きの、けれどやはり、綺麗な瞳だ。
「君が欲しいんだ」
我が儘で傲慢で、そして何よりも素直な言葉。自分よりもずっと年上の男なのに、まるで子どものようだと思った。
「オレは、あいつを忘れられない。忘れるつもりもない」
「なら、忘れなくても良い。忘れなくても良いから、私を見てくれ」
まるで縋るように。懇願するかのように、ロイは言う。そんな台詞を、きっと今まで彼は告げたことなどないに違いない。取り澄ました、余裕のある表情からはほど遠かった。
やばいな、と思った。そんな表情を見ていると、どうして良いのかわからなくなる。
そんな顔をしないでくれと、そう言いたくなる。
「……あんたなら、その気になればもっといくらでも上等な恋人が見つかる」
言葉を探して、やっと出たのはそんな陳腐な台詞。するとロイは自棄気味に笑った。
「君以外、必要ない。この感情が、本当に勘違いならば良かったな。こんなにも醜悪で不様で、そして厄介な感情など、私も知りたくはなかったよ」
それは彼の、どうしようもない本音だろう。ひたすらにエドワードを見つめ、乞うその姿はどこか頼りなくすら見える。自信に溢れ、恵まれるほど恵まれた男の姿はそこになかった。
「……オレはあんたを身代わりにするかもしれない。だから、駄目だ」
別人だと知っている。けれど、自分が弱いことももうエドワードは知っている。無意識のうちに、自分は彼と、もう一人の彼を重ねることがないとは言い切れない。
「それでも、良い。君が好きなんだ」
あまりにも一途なその声に。心が揺れた。
彼は違う。彼は、アメストリスのロイじゃない。彼はこの世界の人間で。だから。
……だから。
「駄目だ」
声が震えた。駄目だ。心の中で、もう一度強く思った。
「そんな言葉は、聞きたくない」
子どもが駄々を捏ねるかのように、ロイは言う。
「……駄目だって、言ってる」
駄目だ。もう自分は知っている。彼と彼は別人なのだと。混同してはいけないと。
――――否。
もう、自分は混同などしていない。少なくとも今、自分はその違いをはっきりと認識している。あの男は、こんな幼い、一途で物わかりの悪い発言など無縁だった。
あくまでも彼は大人だった。夢の中、何も言わず微笑んだ通りに。
「知らない。私は君が欲しい。だから、手に入れる」
宣言するように告げ、彼の顔が近づいてくる。駄目だ、とまた思った。思ったけれど、身体は動かない。唇が重なった。
咄嗟に目を閉じてしまったのは、何故だろうか。
否。
その答えを、エドワードはもう知っている。
唇が震えた。身体が震えた。
最初は触れるだけだった。それが数秒間。
一度唇が離れた。ぼんやりと、男をエドワードは見上げた。表情を確認する前に、もう一度キスされる。今度は少し強引に唇を割られた。
「……っ、ん……」
久しぶりに感じる、他人の舌。その、生々しい感触。顔を背け、彼の舌から逃げようとしたがすぐに絡め取られてしまう。情熱的で、容赦のないキスだった。
「…………、は、……っ」
やがて、ようやく舌が離れた。惜しむように、つう、と唾液が糸を引く。息を吐くことしかできなかった。
エドワードのベストへとロイが触れた。ボタンが一つ、外れる。
「駄目だ。……あんたは絶対に、……後悔、する」
今まで、輝く世界しか知らなかったのだろう存在。傲慢であることが許された男。だが、自分の側にいればそうはいかないだろう。自分はやるべき事がある。彼の我が儘を全て受け入れ、彼だけのものになることは不可能だった。
「それは素敵だ。是非、後悔させてくれないか」
それなのに、ロイは微笑を浮かべて言った。迷いは欠片もなかった。どこまでもその瞳は真っ直ぐだった。
恐れを、何も。何一つ、知らない瞳だった。
ある意味、彼はエドワードよりも余程純粋な存在と言えた。
「私に、君が後悔を与えてくれ」
重ねて紡がれる言葉は、どうしようもなく甘く感じた。最上級の口説き文句。苦笑しか浮かばなかった。
「……あんた、馬鹿だな」
「そうかな」
「馬鹿だ」
わかっている。もう、わかっていた。
この男は違う。あの男ではない。こんなにも、違う。
似ているけれど、それでもやはり別の存在だと、もう自分ははっきりと認識できる。
小さく、吐息が漏れた。
「なら、馬鹿でも良い。君に恋をして愚者になったのなら、それも悪くない」
さすが役者だ。言うことが随分と芝居じみている。もしもこの真剣な眼差しも演技だとしたら、この男は天才だ。
「仕方ねぇ男だな」
自然に、唇が笑みの形に曲がった。仕方のない男。傲慢な男。そんな男が、愛しいと思った。
(仕方ないから、認めてやるよ)
言葉には出さず、心の中で呟いた。そう、仕方がない。もう、自分は気付いてしまったのだから。
自分は怖かったのかもしれない。だから、この男に近づいては駄目だと思った。あまりにも似すぎているからだと思っていたが、それは少し、違っていたのかもしれない。
自分は、――――彼に。
この世界のロイに、惹かれそうで。恋しそうで、だからきっと怖かった。
けれどもう遅い。自分はとっくに、目の前の男に惹かれている。
それはアメストリスにいる、あの男に酷似しているからでは決してない。確かに自分はあの男に恋していた。今も、恋しいている。
けれど、今こうして目の前にいる、この男。彼にも、自分は確かにもう引かれているのだ。そんなに多情だったのかと、自分でも自分に呆れるが、あまりにも彼が傲慢で、一途で。そして愚かで、……だから、仕方ない。
あまり自由にならない左手を、意志の力でどうにか動かす。彼の襟元に手を伸ばし、ぐい、と力任せに自分の元へと引いた。
油断していたのだろう。あっけなく、男は自分の胸にと落ちてくる。その衝撃と体温すら、愛しいと思った。
「オレは」
そのままの状態でそっと口を開いた。
「……オレも、後悔するかもしれない。あんただけを、見つめることはできない。それでも良いか?」
驚いた表情を浮かべて、ロイはエドワードを見つめた。それから、やがて破顔して、厳かとすら言える口調で言葉を紡ぐ。
「ならば、後悔すらも分かち合おう」
その言葉は蜜のように。ひたすらに、甘かった。
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