那 由 多 の 雫    4






 結局、昨日と同じように残業をすませ、仕事場を出たのはやはり夜中だった。
 犯人の詳細は未だ不明のままだ。もっとも、これは当然のことだろう。
 わかっているのは自分に恋文を送ってもおかしくない年齢の女、という程度のことだけだ。
 少なくともエドワードがそう思って不自然ではない年齢の女。若ければ十代、せいぜい三十代というところだろうか。
 二通目の手紙も内容は昨日とまったく同じだった。赤いインクで『人殺し』とだけ、記されている。それだけの、相変わらずシンプルな手紙だった。
 意図は相変わらずこれではわからない。だが、おそらく復讐と見て間違いないのだろう。
 復讐。報復。敵討ち。
 言い方はいくらでもあるが、とにかく相手の女は自分を恨んでいることは間違いない。
 恨み言を直接手紙に書き入れないのは、ロイの良心を揺さぶるつもりなのだろうか。だとしたら、見当違いも良いところだ。今更人殺しと何度言われても、動揺もしないし、反省もできそうにない。
 人を多く殺めてきた。それは永遠に変わらない真実だ。自分の手は確かに血塗れている。
 イシュヴァールでは多くのイシュヴァール人を殺めた。数え切れない程。空を満たす雨の変わりに、全てを焼き尽くした。己の操る、幾千幾万の焔の礫。あるいは、焔の雫で。
 さすがに殲滅戦が終わってからは滅多に人を殺めることはなくなったが、それでも皆無ではない。銃を握ることはままあるし、必要となれば躊躇いのないまま、殺めてきた。
 それは快楽殺人を犯す人間とは違い、自らの愉悦の為に人を殺めたわけではない。ただ、命令を実行した。それだけのこと。
 仕方なかった、と言い訳をするつもりはない。どうしても人を殺められれず、軍を去った人間もいた。自分も、本心からそう望めば同じ行動をすれば良いだけの事だった。
 殺めることを選択したのは、紛れもなく自分の意志だ。今も、それは後悔していない。
 自分が自分であること。軍人になったこと。大佐という地位についたこと、全て。
 後悔しても、意味など何一つ無いのだ。後悔したところで、自分が人を殺めたという事実は永遠に消えることはない。どんなに後悔しても、全てを赦される日など来ない。それだけの罪を、自分は背負った。背負うことを、選択した。
 全て、自分が決めたことだ。
 人を殺めることも。その咎を背負うことも。その咎を、永遠に忘れないことも。
 そして、―――だからこそ、自分は生きる。人を殺めてまでも進むと決めた、その道を歩む為に。
 それを邪魔することは誰にもできないし、邪魔をするなら排除するだけだ。
 おそらく、自分は最低の利己主義者だ。だが、それが何だと言うのだろう。自分の信念も決意も、揺るぐことはあり得ない。
(さて、そろそろか) 
 昨日狙撃された場所が近づいてきた。まったく同じルートで帰ろうとする自分を、犯人はどう思っているのだろう。
 相手も警戒をしているが、それはこちらも同じ事。もっとも、部下達を連れていないから別の意味ではさぞ無防備にうつることだろう。
 本来ならば、部下達が連れ添って当然だ。だが、そうなれば犯人は出てこない可能性が高い。無意味な持久戦をするつもりなどなかった。事は迅速に終わらせた方が良い。
 部下達に事情を告げれば、当然ながら援護を、と申し出た。だが、油断でも、自惚れでもなく、これは自分一人で片づけられる問題だった。そうであるならば、わざわざ部下達に苦労をかける必要もあるまい。
 念の為に、自分が出てから一時間、何もなかった場合のみ、彼等は自分と同じルートへとやって来ることになっている。けれど、彼等がこの場所へと今日来ることはないはずだ。すぐに、それは終わるのだから。
 そう。―――これから、すぐに。
 夜の町は相変わらずしん、としている。だが、自分を尾行している気配は確かに存在していた。
 足音を立てることはないから、少なくとも全くの一般人ではないらしい。
 かつん。かつんかつんかつん。
 自身の軍靴の音がやけに響いて聞こえる。障害物の少ない場所に到着したら、相手は引き金を引くはずだ。
 昨日は練習だったのか、それとも命を狙っているというアピールだったのか。もしかしたら、単純に失敗したのかもしれない。そのどれかかもしれないし、違うのかも知れない。理由などどうでも良かった。
 やがて、昨日撃たれたその場所へと到着する。途端、ぴたりと歩を止めた。
 明らかな殺気を感じた瞬間、予め発火布を装着していた指を一度鳴らす。
 その次の瞬間、甲高い女の悲鳴と、銃が道路へと転がる渇いた音が同時に響いた。
「初めまして、と言うべきかな」
 振り返り、微笑みすら浮かべてそう告げる。女の顔は見えない。俯き、左手で右手を押さえて痛みの為に呻いている。
 当たり前だ。彼女は非常に小規模の爆発により、右手に比較的軽いとはいえ、火傷を負っているのだから。タイミングと加減を間違えれば彼女の銃が暴発する可能性は否めないものの、そんな失敗をする程経験不足ではなかった。
 かつん。かつん。かつん。近づくと、自分を真正面に睨み付けた。
 年の頃は二十の半ば。気の強そうな双眸。例えるなら、まるでエドワードのような。
「…人殺し…っ…!」
 それは悲鳴に近い叫びだった。双眸に似合った、気の強い女であるらしい。
「あんたのせいで、あの人は…っ…!」
 魂の底から憎悪している、その声音。そんな声を聞くのは久しぶりだなと無感動に思った。
「やはり、復讐か」
「あんたなんて、…地獄に堕ちると良い…っ」
 女は落とした銃を拾おうと手を伸ばす。その前にもう一度指を鳴らそうとした、まさにその時。
「止めろよ…っ」
 それはここにはいないはずの人物の声。反射的に、声の方向へと視線を走らせた。戦場ならば、命取りになりかねない、そんな無防備な行動。
 その間に自分と女の間には突然壁が出現した。…正確には、女と、女の銃を隔てるための壁が。
「何故、君がここにいる?」
 当然の疑問。どうして彼がここにいるのだろう。彼はもうとっくに列車に乗り、遠い村へと向かっているはずなのに。だが、エドワードは答えない。変わりに、女の元へと歩み寄る。
「……これが、あんたの叶えたい夢だったのかよ」
「いいえ」
 ロイには意味不明の会話を交わし、おそらくエドワードが手を貸したのだろう。女が立ち上がり、壁から顔を出した。
 女は泣いている。記憶力はそれなりに良い方だが、見覚えのない女だった。褐色の肌でも赤い瞳でもない。では、イシュヴァール人ではないらしい。
「同行してもらおうか」
 告げると、女は自分を睨んだ。そして、口を開く。
「人殺し」
 それは呪詛の言葉。本心からの、憎悪の声音。答えずに、女の両手を拘束した。
「あの人は、ただ国を良くしたかったのよ。それなのに、…なのに…っ…!」
(国を良くしたい、か)
 それは妄想狂の理想論者、つまりテロリストが好む言葉だった。では、この女はテロリストの関係者だったのだろう。この様子では、恋人か、夫が死んだに違いない。
「人殺し…っ」
 繰り返される台詞も胸には響かない。それはただの事実でしかなかった。
「何故、手紙を寄越した?」
 奇襲の方が、まだしも自分を殺める確立は上がったはずだ。
 もっとも、それは本当に僅かな可能性にしかすぎないけれど。
「この子にどんな笑顔を振りまいてても、あんたは所詮人殺しだって思い出させてあげたかっただけよ」
 その問いに、ふ、と少しだけ女の唇が笑みの形に歪ませて告げた。この子、とは無論エドワードを示している。彼は横を向き、表情は不明だった。
「なるほど」
 頷き、納得する。だからこそ、手紙を自分に渡す役目はエドワードだったのだ。彼女の中で、その役目は彼以外にあり得なかった。
 おそらく、町中でエドワードと歩いている時にでも、この女は自分たちを見かけたのだろう。そしてその時、自分は彼に向かって微笑んでいた。それが彼女には赦せなかったのだろう。彼女にとって、自分はただの人殺しでしかない。その人間が、穏やかに笑うなどとは。
 だが、彼女は間違っている。ロイは自分が人殺しという事実を忘れたことは一日すらも存在しない。
 自分が人殺しだと認識した上で、ロイはエドワードに微笑みかけているのだから。人殺しの自覚が常に有る以上、あの手紙をもらったところで、取り乱すことも、良心が痛むこともなかった。
「他の話は後で聞こう」
「いいえ。もう話すことはなにもない」
 ひどくきっぱりと、女は言った。
 その目は真っ直ぐにロイを射抜いている。迷いも、躊躇いもなかった。
「私は軍になど屈しない。あんたのような国家の狗とは違う」
そして、ひどく鮮やかに微笑みながら、彼女はロイに告げた。
「永遠に呪われると良いわ。焔の名を持つ人殺し」
 ―――そして。
 かちり、と。
 微かに、彼女の口元から小さな音が聞こえた。
 数秒の後、くぐもったうめきと共に、ぐら、と女の身体が揺れ、そのまま地面へと崩れ落ちる。
「…え…?」
 呆然とした声をあげ、エドワードが女に触れる。
「おい…っ!」
 慌てて抱き上げたが、倒れた女はエドワードの腕の中、少しの間だけ身体を痙攣させ、やがてぴくりとも動かなくなった。
 女がどうなったのか、一目瞭然だった。それはもう、生きてはいない。
 エドワードが顔が見る見る青ざめているのが見て取れた。今まで生き、そして言葉を紡いでいた人間が、突然動作を止めたのだから当然だった。更に言うなら、それが女だから余計に心理的に辛いに違いない。大人の女の死は、それだけで母親を連想させる。
 彼にかける言葉を持たないまま、動かなくなった女に触れる。顔は苦悶に歪み、口からは僅かな血が流れていた。
「…毒だな」
 おそらく、奥歯に仕込んであったのだろう。または噛めば壊れるカプセルだろうか。
「………。見りゃ、わかる」
 ひどく小さな声で告げ、エドワードは目を閉じた。怒っているのだな、と思う。彼の声は恐怖以外の意味で、震えていた。
「どうして、止めなかった」
「止める間もなかったよ」
「嘘だ」
 彼は断言する。少しの迷いもなく。
「あんたは、こうなる可能性を知ってたはずだ。それなのに、行動しなかった」
 聡い子どもだから、それは気付いて当然の事実だった。確かに、自分はこの女の自殺を止めることも可能だったかも知れない。
「そうだね。それは認めよう」
 結束の硬いテロリスト集団なら、黙秘を通す為に毒薬を常に持っているグループも確かに存在する。少なくとも、自分はそのことを知っていた。
 だが、自分は彼女を見守った。彼女が自らの意志でその人生に幕を下ろすその過程を、ただ淡々と。
「どうして……!」
 自分を糾弾するエドワードを、ロイはひどく羨ましく思う。それは彼がまだ子どもである、なによりも証拠だった。
 幼く、純粋な、そして真っ直ぐな子ども。
(そして、だからこそ君には分からないだろう)
 彼の言うとおり、本来は止めるべきだったのだろう、とは思う。
 だが、自分は止める気にはなれなかった。動機の詳細を聞く為には止めるべきだった。それはわかっている。
 けれど。
 ―――今はもう動かない、この女の目を確かにロイは見た。
 それは決意の、そして切望の目だった。
 その目を自分は知っている。かつてのイシュヴァール戦で、その目をした人間を何人も見た。生きながら地獄を見、それ故に死を望んだ人間達を。
 目の前の女は、確かに死を望んでいた。ロイへと呪詛を振りまきながら死んでゆくことを。すでに存在しない、最愛の人物の元へと旅立つことを。
 それが彼女の強い、強い願いだった。望みだった。おそらく、彼女はずっと待っていたのだ。この時をひたすらに。ずっと、―――ずっと。
 最初から、彼女は死ぬつもりだったのだろう。ロイを殺めることに成功しても、しなくても。
 ロイのことを少し調べたら焔を操ることなど、すぐに知ることができるはずだ。
 調べなくても、噂を聞いたことがある人間はいるだろう。その程度には、自分の存在はこの町で知れている。
 それなのに、彼女は堂々と姿を自分の前に現した。命を惜しんでいれば、そんな行動には出ないはずだ。おそらく、昨日の狙撃はいわば予告だったのだろう。
 最愛の者を失い、絶望した女が死を決意した。
 だが、それだけでは終わらず、敵である自分も道連れにと望んだ。……それは単なる予測に過ぎないが、おそらくそういうことなのだろう。
 彼女の望んだ死を見守ること。それだけが、ロイにできる彼女への唯一の慈悲だった。
 けれど、エドワードには死による安息も、それを望む気持ちも分かるはずがない。分かる必要もない。
 彼はそんな人間の暗闇に捕らわれるにはまだ、若すぎるのだから。
「非難はあとで聞くよ。それより、今は先に連絡をしてくれないか」
 淡々と告げると、エドワードは唇を噛んだ後、くるりときびすを返す。そして、電話のある場所へと走っていった。


 ……それが、ささやかな一つの事件の終焉を告げる風景だった。