那 由 多 の 雫   5






 ひどくあっけなく、全ての幕は閉じた。事件自体はひどく単調でしかない、その幕が。
 犯人の女はやはりと言うべきか、つい最近瓦解したテロリストの一員だった。その首謀者が、どうやら恋人であったらしい。
 無論、首謀者はすでにこの世には存在しない。それはロイが手を下したわけではなく、女と同じ方法での自決だった。
 ただ、そのテロ集団を瓦解させたのがロイの手腕によるものだったことは確かだ。だから間接的には、確かにロイが殺したことになるのだろう。
 だが、今更一人や二人、殺した人間が増えたところでロイ自身には何の変化もない。
 ともかく彼女は最愛の人間を奪ったロイを逆恨みし、そして復讐をしようとした。そんな、あまりにも陳腐な話。(人の命は、軽いな)
 書類にすればたった数枚。日数にすれば、女が死んでからたったの二日。それだけで、全てが終わったと片づけられることになるのだから、本当に人間の命とは軽いものだ。哀れな程に。
 目を通した書類に自嘲気味に笑みを落とし、それから署名をする。印を押し、完成させたところでノックの音がした。
「よぉ、大佐」
 その声音に驚き、思わず視線をあげる。そこには数日前よりも少しばかり疲れた表情のエドワードがいた。
「……どうしたんだね?」
 努めて冷静に尋ねたが、彼は答えない。そのまま歩を進め、自分の目の前まで来ると書類を指さした。
「この件の話。してないだろ」
 ―――非難はあとで聞くよ。
 そう、確かに自分は告げた。では、彼は自分を非難しにきたというわけか。
「こんな時間にかい?」
 時計は今夜も夜中を指している。それを示しながらおどけて尋ねると、仕方ねぇだろ、と彼は言った。
「ずっとあんたは仕事にかかりっきりで時間がないって中尉も言うしさ。だけど、このまま旅に出るのも癪だし。だから、わざわざ待っててやったんじゃねーか」
 彼の言うとおり、確かにこの二日間は本当に忙しかった。残業どころか、家に帰ることもままらなない。仕方なく、仮眠室と執務室を往復した。
 この事件が終着し、ようやく家に帰れることになり、仕事ではなく、自分の為の時間が取れるようになったのは事実だ。それは自分だけではなく、部下も一緒で、ようやく先ほど彼等にもロイが帰って良いと告げたばかりだった。おそらく、リザが帰り際にエドワードに仕事が終わったことを告げたのだろう。
「この時間では、明日の方が君も楽だろうに」
 言ってみても、彼の中では今日告げる、と決めてあるのだろう。引く様子は見せない。
(仕方ないな)
 ―――そう、仕方のないことだ。
 嘆息し、彼を長椅子に奨めるとエドワードは黙って従う。
「しかし、君がよく待っていたな」
 何しろ彼は短気だ。彼としては自分に言いたいこともあるだろうが、良く二日も待ったものだと思う。
「調べることがあったからな。それで時間潰してた」
 そういえば、そんなことを言っていたな、と思い出す。そもそも、彼がここへとやってきた目的はロイのサインと、調べものの為だった。
「そう言えばそうだったな。……だが、私は君に視察を依頼したはずだが?」
 そうだ。それなのに何故、彼は姿をあの場所に現したのだろう。まるで予め知っていたかのように。
「それは、アルが行ってる」
 その言葉に微かに目を見開いた。彼ら兄弟はとても仲が良く、大抵は一緒に行動している。鎧姿の弟は、例え姿を見せなくてもいつでも兄の側にいるのが常だった。
「……あの日、あんたに視察するように言われて。ここを出て宿へと向かう途中で、あの人に呼び止められた」
 あの人、とは誰だろうと考え、すぐに答えを導いた。犯人の女のことだろう。
「オレは何も知らないって言って。知る為に、この町を出るな、ってさ」
 女はロイの行動を正確に読んでいたのだろう。自分がエドワードをこの町から遠くへと向かわせることを予測していた。だから、エドワードを止めた。それは実に単純な思考だ。
 そしてエドワードは、と言えば、それが何を意味するかわからず、だが一方で自分に対する不信感が少なからずあったのだろう。視察の依頼も、何か変だと察知していた。
 そして女はこう告げたのだという。
 ―――あの人がここから出てきたら、十分後に来ると良いわ。それで、全てが分かるから。
「……なるほど」
 随分抜け目のない女だな、と思う。それは賞賛に値する程に。
 エドワードはロイの自宅を知っている。その行き方こそが帰り道のルートでもあるのだから、後をつける必要はない。ただ、知っている道をなぞればいいだけだ。
 エドワードはどうするべきか考えたはずだ。突然、一体何を言うのだろうと思いもしただろう。ロイへの恋文を二度も託してきた女が、お前は何も知らない、と告げれば普通は驚くし、不審に思うのが通常だ。
 彼なりに考えた上で、視察の件をアルフォンスに託し、自分は女の言うとおりに行動した。それは女に従ったわけではなく、彼自身の目で真偽を見極めたかったのだろう。
 そしてエドワードは、今にも女を殺めようとする自分を目撃した、とういわけだ。
「オレは、知らなかった訳じゃない。……だけど、忘れてた」
 ひどく小さな声で、彼は告げた。
「あんたが、軍人だって事を」
その声は何故か微かに掠れている。まるでようやく絞り出したかのような、そんな声音。
「何を今更」
 その台詞が可笑しくて、小さく笑う。自分は確かに軍人だ。彼に出逢う前から、ずっと。
「そうなんだよな。オレは、ちゃんと知ってたんだ。あんたは軍人で、英雄で、人殺しだって」
 あの女は、自分が何もかも隠し、エドワードに微笑みかけていると思ったのだろう。ただ、彼にだけは優しさだけを与えていると。
 他人にはそう思える程、自分は彼に対して甘く微笑んでいたに違いない。
けれど、エドワードは知っている。ロイが英雄と呼ばれた過去を。
 戦地で英雄と言えば、大量虐殺者を示すことを彼が知らないはずがない。
「分かってたけど、なんかショックだった。ショック受けたことが、またショックなんだ。妙だよな」
「そうか」
 だが、当然と言えば当然なのだろう。彼は自分が焔を使うことは知っていても、焼き殺す場面を見せたことなどなかった。
 ―――見せるつもりもなかった。
 自分がこの町から去らせたかったのは、彼の身の安全のみを願った結果ではなかった。彼は自分が人殺しだと知っている。けれど、決して実感をさせたくはなかった。
 自分の手が血塗れる瞬間を、彼に知られたくはなかったのだ。どうしても。
 それを、女は正確に理解していた。なんて最悪で、賢い女であることか。その一方で女は愚かな程恋に狂い、恋を失った故に滅びることを願った。
 ―――これが、あんたの叶えたい夢だったのかよ。
 ―――いいえ。
 あの日、エドワードと女が交わした会話。あの瞬間は意味が分からなかったが、今なら分かる。
 あの時点では、彼女は確かに願いを叶えていなかったのだ、と。
 彼女の願いは二つ。
 一つは、愛する男の元へと旅立つこと。
 そしてもう一つは、エドワードに自分という男を知らしめる事だったのだろう。
 ―――人殺し。
 繰り返し、彼女は糾弾する。責め続ける。他の誰に言われても構わない。
 だが、彼を失うことだけは、自分は確かに恐れていた。
 そして彼女は夢を叶えた。それは、確かに達成されたのだ。その、あまりにも薄暗い、狂気に等しい夢を手に入れた。
 そして彼は、身分の元から去るのだろう。元から恋愛感情を抱いていたわけではないが、自分という人間を正確に認識した以上、近寄りたくはないはずだ。
 女はロイが手を下したわけではない。だが、自分が容赦なく人間を殺めようとするその瞬間を彼は確かに目撃しているのだから。
「あんた、きっと良い死に方しないぜ」
 エドワードの言葉に苦笑し、即答する。
「当然だろうな」
 そんなものを目指すのならば、最初から野望を抱いたりはしなかった。適当な地位で満足し、それこそ平和な家庭を作ろうとしたかも知れない。そもそも、軍人にはならなかったかも知れない。
 だが、それは全て無意味な想像でしかない。自分は自分でしかありえず、だからこの道しか自分は選ばないし、選ぶつもりもなかった。
「望んでもいないよ。最初に人を殺めたその瞬間からね」
 それはもう、遙かな過去。決してなくなりはしない、現実。日々が地獄だった。ひたすらに必死に生き延びた。悪夢という名の、過去。
 あの日から、安らかな死など求めていない。
「それでも、必要ならば私は殺め続けるよ」
「……そうだろうな」
 止まることも、後悔することも自分には赦されない。歩んでしまったのなら、終着まで歩き続けるだけだ。
 これからも。これまでも。ずっと。いくらでも自分は人を殺める。血を流す。肉を焦がす。
 幾千幾万の赤い雫が自分を覆い尽くそうとも、自分は決して歩みを止めない。
 何を犠牲にしたとしても、絶対に。
 だが、そんな人間に対して、彼はもう、笑いかけはしないだろう。それもまた、当然のことだ。
 潮時なのだろう。彼を諦める時がやって来たのだ。
 元々、彼との関係は長続きするはずもなかった。それでも、決して彼を手放したくはなく、永遠を願っていたけれど。
 観念する時が来たのだ。この感情は手放せなくても、彼は去っていくのだから。
 そう思い、目を閉じる。すると、ひどく落ち着いた声音でエドワードが言った。
「それが、あんたの覚悟なんだな」
 不可思議な表情を彼は浮かべていた。何かをまるで、悟ったかのような。
「忘れてて、悪かったよ」
「……鋼の?」
 意味の繋がらない言葉を続けて寄越され、困惑する。
 一体、彼は何を言いたいのだろう。
「あんたは軍人なんだ。どこまでも。それを忘れて、ショック受けたオレが悪かった」
 彼が謝罪する意味が分からない。どうして、彼が謝る必要があると言うのだろう。
「もう、忘れない。あんたの行動が正しいなんて思わねぇ。だけど、それがあんたなんだって、ちゃんと覚えておく」
 そして、彼は笑った。ひどくそれは、小さくて、いかにも無理をした笑みだったけれど。
 ―――彼は、子どもだ。
 素直で、真っ直ぐで生意気な。
 けれど本当にそうなのだろうか。少なくとも、ただの子どもではなかった。それくらいは、自分も知っている。けれど。
 ――――――本当に、彼は子どもだろうか。
 まるで哀れみや慈悲を含んだ、その声音。ロイという人間の醜悪さ、邪悪さを知っても尚、彼はひるまない。逃げない。
 対峙し、記憶すると告げる。決して、忘れないと。その醜悪さごと、ロイの存在を受け入れるかのように。
 呆然と、彼を見つめた。
「鋼の」
「あんたは最低な人間だよ。だから、最低なまま生きればいい。オレ達が禁忌を行っても尚、生きてるみたいに」
 気休めの言葉を、彼は言わない。
 偽りの優しさも、彼は自分に与えない。
 ただ、生きろ、と彼は告げる。自分の思うままに。それがお前という人間なのだから、と。
「……君には、敵わないな」
 完敗だ、と思った。
 彼は子どもだ。けれど、きっともう子どもではないのだろう。当たり前だ。彼は真理を見た、数少ない人間なのだから。
 そんな人間に、敵うはずがない。
 自分は彼に惹かれている。誰よりも。どんな人間よりも、彼に恋い焦がれている。
 そんな自分から、彼は去らない。ただ、事実を事実として受け止め、糾弾する。
 だからこそ余計に、自分は彼に恋するのだろう。
 彼を欲しい、と思うのはもう感情ではない。本能だ。自分にない、純粋さ、真っ直ぐさ、潔癖さ。それでも尚、前を見据え、歪めることのない視線。その、全てを愛しく思い、欲しいと思う。時には、その全てを焼き尽くしてしまいたくなるほどに。
「無論、生きるよ。君の言うとおり、最低なままね」
 どんなに醜態だろうと。不様だろうと。自分は生きていく。躊躇いなど、ない。それを後押ししたのは彼だ。
「じゃ、オレは宿に帰るぜ」
 言いたいことを言ってすっきりしたのだろう。彼は立ち上がり、退出しようとする。
「……何だよ?」
 その腕を掴むと、彼は嫌そうな顔を浮かべた。今までとその表情はまったく変わらない。
 何も、自分たちの関係は変化していないのだ。何一つ。良くも、悪くも。
 ただ、自分がより強く、彼に惹かれたと言うだけで。
「せっかくだ。是非この間果たせなかった約束を今、果たしたいのだが?」
「約束、って…」
 言いかけたが、やがてロイの言わんとすることに気付いたらしい。さっと顔が朱に染まった。
 約束など、夜を共にすることに決まっている。手紙のせいで、先日は叶わなかった。
「あんた、最低」
 予想通りの罵倒に、ロイは笑顔で答えた。
「勿論だよ。君の言うとおり、最低なまま生きる、と言っただろう?」