N Y X


※R18








 はじまりは何気ない一言だった。

「今夜は冷えそうだね、兄さん」
 窓の外を見ながらそうアルフォンスが言うと、エドワードも頷いた。
「そうだな。今日は冷えるな」
 実際、今日は随分と寒かった。そしてこれから更にどんどん寒くなるのだろう。
 時計に視線を向ければ、そろそろいつもなら眠る時間を示している。
「明日はもっと寒いのかな?」
 良いながら、椅子から立ち上がった。この世界の、この国の冬はリゼンブールより寒いだろうか、とぼんやりと考える。
「アル。今日は一緒に寝るか?」
「え?」
 不意に告げられたエドワードの台詞に首を傾げた。幼い頃は良く一緒のベッドで眠っていたが、この世界にやって来てからは当然ながら無縁の事柄だった。
「兄さんと一緒に?」 
「あぁ。余計な布団なんかオレたち持ってねぇしな」
 言われてなるほど、と思う。確かに、夜中はもっと冷えるだろうに、自分たちは余計な布団など持っていなかった。けれど、一緒に眠ればそれだけで暖かくなるし、掛け布団も倍使えることになる。実に合理的だった。
 問題は少々窮屈だ、ということだが、エドワードは小柄だったし、アルフォンスもまだ成長途中だ。どうしようもなく狭い、ということもないだろう。久々に幼い頃のように二人でくっついて眠るのも悪くないかも知れない。
「じゃぁそうしようか。兄さんと一緒に寝るなんてすごい久しぶりだね」
「そうだな。昔はそれが当たり前だったのにな」
 そうと決まれば話は早い。いつもならばエドワードはもう少し遅く眠るが、この日は一緒の時間にベッドへと潜り込んだ。予想通り、一人用のベッドではやや狭いが、そう不自由でもない。密着する分、確かに暖かかった。
「やっぱり二人だと暖かいね」
 言うと、エドワードが笑う。
「そうか」
 その笑顔はひどく嬉しそうだ。エドワードの笑顔を見ると、なんとなくアルフォンスまで嬉しくなる。以前、当たり前に彼の側にいたときはこんなささやかな瞬間にまで喜びを噛み締めることなどなかったが、やはり数年間の別離は自分にとって大きかったらしい。
(やっぱりこの世界に来て良かった)
 そう、心からアルフォンスは思う。鎧姿をしていた時のことを自分は完全に忘れていたが、その時ですら彼と供に生きることに躊躇いなどなかった。ただ、兄と一緒にいたかった。その為なら全てを捨てても良いと、そう思えるほどに。
 幼い頃から、エドワードはアルフォンスにとって絶対の人だった。誰よりも大切で、大好きな兄。ずっと一緒にいるのだと、疑ったこともなかった。それは無論、鎧姿の時も然りだ。
 けれど、旅の記憶を失ったとき、兄の姿はそこになかった。その時の消失感と衝撃はとても言葉にできないし、二度と体験したくもない。母が倒れたときもそれなりにショックを受けたが、比べものにならなかった。それはエドワードが最後の家族だ、という意識が自分の中であったからかもしれないし、別の理由かも知れない。自分でも良く分からなかった。
「おやすみ、アル」
 エドワードの声はまるで母のように、優しく、心地良い。うん、とアルフォンスも笑って頷いた。
「おやすみ、兄さん」
 そうして目を閉じたのは、夜中と言うには少しばかり早い時間のことだった。

◇ ■ ◇


 ――――眠れない。
(どうしよう)
 普段、アルフォンスはかなり寝付きが良い方だ。エドワードの方が更に良いが、それはエドワードが特別なのだろう、とアルフォンスは思う。
 ともかく、こんなにも眠れないのは珍しい。眠りを必要としなかった鎧姿の時代ならば眠れないのは当たり前だが、今日は一体どうしたことだろう。
(もしかしてボク、兄さんと一緒に眠れるのがそんなに嬉しかったのかな)
 あるいはそうなのかも知れない。再開して、一緒に暮らして。今、自分は本当に幸福だと思うことができる。例えこの世界が自分の生まれた場所とは違っていても、それでも構わない。望郷の念など、少なくとも今はなかった。
 ずっとずっと探していた兄とこうして一緒に暮らし、同じベッドで眠っている、というのは確かに冷静に考えてみれば眠れないほど喜ばしいことだろう。
 そんなことを考えながら、エドワードの様子を伺えば、彼は完全に熟睡しているらしい。規則正しい寝息が聞こえて来る。
(相変わらずだなぁ、兄さんは)
 思わず微笑み、尚も兄の姿を見ていると、やがてエドワードが寝返りを打ち、アルフォンスに背を向ける。その拍子に長い金髪の隙間から項が現れ、なんとなく触れたいな、と深い意味もなく思った。
 衝動のままに指を伸ばし、そっと項に触れる。
「ん……」
 するとエドワードが小さく声を漏らした。起こしただろうか、とぎくりとしたが、起きる気配はない。その事実に安堵しつつ、ゆっくりとアルフォンスは半身を起こした。
 月明かりが思いの外明るく、エドワードの表情が良く見える。眠る彼は、普段よりも少しばかり幼く見えた。
(けど、兄さんってこんなに綺麗だったっけ?)
 自分の知る兄は、とにかく頭は良いがやんちゃで、少なくとも綺麗だ、などと思ったことはなかった。けれど今、こうして改めてエドワードを見ていると、なんて綺麗なのだろう。
 自分と離ればなれになった数年間という時間は、それほどまでに大きかった、ということだろうか。
(兄さん、恋人とかいたのかな)
 二人で旅をしている間は恋など無縁だった。けれど、この世界に来てからはどうだったのだろう。しばらくは父と暮らしていたらしいが、やがて父も行方不明になってしまえばエドワードはこの世界でただ一人だ。人恋しいと、そう思うこともきっとあっただろう。
 例えそう思わないとしても、周囲の人間が放っておいたとはあまり思えない。元々、エドワードは周囲の人間がなんとなく構いたくなるような空気を纏っている。そして警戒しているときは冷たい態度を取る癖に、一度信頼するとひどく無邪気に、無防備になるひとだ。屈託なく笑うその笑顔は、見とれずにいられないほど魅惑的だと言うことをアルフォンスは誰よりも知っている。――否、笑顔以外も、エドワードは魅力に溢れている。
 それが男であれ女であれ、エドワードに惹かれる人間は多いに違いなかった。
 そしてその惹かれ方は様々だろう。グレイシアのように、保護者的な愛情を注いでくれる相手もいれば、当たり前にエドワードに恋した人間も大勢いたはずだ。そのうち一人をエドワードが選ばないと誰が言い切れるだろう。
(きっと、いたよね)
 もうエドワードは十八歳になる。結婚していてもおかしくないだろう。ならば、恋人の一人や二人、いたと考える方が自然かも知れなかった。実際、自分たちが人体錬成を試みなければ、今頃アメストリスで当たり前に家庭を持っていたかもしれない。……あまり、想像はつかないが。
(キスとか、したのかな)
 恋人がいたのなら、無論経験して当たり前のことだ。けれど、瞬間的に嫌だな、と思う。だが、思ったところでどうにもならない。それ以上の行為すら経験しているかもしれないというのに。
「……っ」
 思わず更に想像してしまい、息を飲んだ。こうなると寝顔を見つめることすら罪悪感じみてくる。
 慌てて目を反らしたが、結局またエドワードを見つめる自分がいた。
 恋人に対して、エドワードはどんな態度を取ったのだろうか。
 自分に微笑むように微笑んだのか。それとも、もっと違う表情を見せたのだろうか。そう思うと、更に嫌な気分になった。
 だが、それなのに考えることをやめることができない。微笑み、そしてエドワードはどんな風に相手と会話するのだろう。唇を重ねて照れたりしたのだろうか。
 そうだとしたら、もしもそれより先の行為へと進むときはどうだったのだろう。
(……っ、やば……!)
 どうやら深く考えすぎてしまったらしい。思考に正直に身体が反応していた。それは非常にまずい事態と言えるだろう。
 まさか自分でも、実の兄にこんな風に身体が反応するなどとは思いもしなかった。エドワードが兄ではなく姉ならばあるいは有り得ることかもしれないが、エドワードは兄でしかない。それなのに。
(なのに、どうして……っ)
 けれど今は悠長に何故、などと考えている場合ではなかった。今、エドワードは良く眠っているが、今すぐ起きられでもしたら言い訳のしようがない。からかわれて終わりならばまだ良いが、場合によっては激怒するか気味悪がるだろう。さすがにそんな事態は避けたかった。
(とりあえず、この部屋から出ないと)
 エドワードを起こさないようにそっと出て行けばいい。その後、風呂あたりに行くのが一番妥当だろう。そうして何事もなかったかのように戻ればそれで良い。ずっとエドワードが眠ってさえいれば、このことを知るのはアルフォンスだけだ。
 そうと決まれば立ち上がり、出て行くだけだ。なるべくゆっくりと脚を床に付け、そっと立ち上がる。エドワードの眠りは深い様子だから大丈夫だろう。そう思った。
「……ん」
 また、エドワードが声を漏らす。だが、あまり気にせずに一歩、二歩とをドアへと進んだ。
 その時だった。
「アル?」
 それは確かにエドワードの声で、思わずアルフォンスは立ち止まる。嫌な汗が流れた。
「どうした?」
 声はいかにも寝起きのそれだ。いままで熟睡していたくせに、どうしてこんな時に限って起きるのだろう。だが、ある種なんとも兄らしい、とも思った。
「なんでもないよ。すぐ戻るから、兄さんは寝てなよ」
 できるかぎり平静を装って告げる。絶対に知られたくはなかった。
 気配で兄がむくりと半身を起こしたのが分かった。幸い、自分は後ろを向いている。……ただし、少しばかり屈み気味なのが難点だった。
「……あぁ、なんだ、そっか。そんなにこそこそするなよ」
 いきなり、いかにも合点がいった、とでも言うようにエドワードが言葉を紡ぐ。どう反応して良いのか分からず固まった。
「そうだよな、アルももうそんな年なんだよな」
 言葉はひどく感慨深げなそれで、つまりおそらくはかなり正確に事を理解していることを示していた。
「んなこと、別に誰でもあることなんだし、恥ずかしがることないぞ?」
 あっけらかんとして言われたが、そう言われてしまうとますますアルフォンスとしてはいたたまれない。確かに、『兄のことを考えて』反応した、という事例はともかくとして、状態自体はある一定年齢を超えた男ならば『誰にでもあること』だろう。だがしかし、わざわざそれを肉親に知られたい人間は普通存在しない。
 とりあえず気付いたら気付いたで、見ないふりをしてくれればまだ幾分か気持ち的に楽だったろうに、と思わずエドワードを恨んでみたがどうにもならない。
 歩き出すに歩き出せず、何を言うべきか悩んでいると、その間にエドワードも立ち上がり、アルフォンスの元へと寄ってきた。
「協力してやろうか?」
「……え?」
 言われた意味が分からず、首を傾げた。
(協力? 協力って、何を)
 呆然と考えている間に、エドワードはアルフォンスの腕を引いた。呆然としていたアルフォンスは思わずつられ、瞬く間にベッドへと逆戻りしてしまう。
「あの、兄さ……?」
「じっとしてろ。すぐ終わるから」
 言うなり、エドワードはアルフォンスの下半身へと手を伸ばす。いかにも当たり前に、迷いなども欠片もない状態で。
「ちょっ……」
 あまりのことに、全く動かない。ただ呆然とするしかなかった。幼い頃ならばともかく、まさかこの年齢になって――とは言っても、精神年齢と肉体関係はイコールではないわけだが――兄が自分の股間に触れる、などという事態を誰が想像するだろうか。 
「お前、ホント成長してんなぁ」
 少しばかり感心した口調で言われたが、アルフォンスの思考は動かなかった。それなりに優秀な頭脳をしているはずだったのだが、全く機能を果たさない。早い話、エドワードが何を言ったのか理解できなかった。
 アルフォンスが何も言わないことに対して、特に不満もないのか、エドワードは次にアルフォンスのパジャマ、というよりはズボンに手をかけた。……やはり、迷いはなかった。
「に、兄さ……?」
 とっさに彼を呼んだが、その頃にはズボンを脱がされている。抵抗、という言葉すら思い浮かばなかった。
「心配すんなって。オレ、下手じゃないからさ」
 やはり彼が何を言ってるのか、理解できない。理解できないが、エドワードがアルフォンスの知るいつもの彼ではない、ということだけは分かった。
 けれど、何が違うのか、言葉にすることは難しい。姿はアルフォンスが良く知る兄そのものだし、声も然りだ。ただ、雰囲気だけがいつもと、――――昼間の彼とあまりにも違っていた。
 その様子に、尚更アルフォンスは呆然とする。こんな兄は知らない。こんな艶めいた雰囲気の兄など、自分は知らない。……今まで、知らなかった。
 するり、とエドワードの掌が下着越しでアルフォンスに触れた。
「……っ」
 布を一枚薄くしただけで、随分と感覚が違う。その上、エドワードは明らかにアルフォンスを煽るように手を動かした。
 もしも本当に嫌だと思ったならば、エドワードを止めることは簡単だったはずだ。けれど、それができないほどそれはアルフォンスにとって強烈な出来事だった。
 エドワードの口元に、微かに笑みが浮かんだ。その口元を凝視する。
 やがてエドワードは手の動きを止めると、おもむろにアルフォンスの下着をずらした。その様子を、ただアルフォンスは見つめた。兄がこんな行動を起こしていることが未だに信じられず、声も出ないし身体も動かない。そしてきっとどこかで、確かに期待もしていた。
 欲望を主張するアルフォンス自身が露わになり、エドワードは少しだけ息を飲む。
「もうすっかり雄なんだな」
 少しばかり不満そうに呟く様子は、普段の彼とあまり変わらないように見えた。だが、やはり違う。どこか淫靡な空気がまとわりついていた。 やがて、彼はアルフォンスの股間へと顔を埋める。
「ん……っ」
 次の瞬間には、暖かく濡れた何かがアルフォンスの分身に触れた。ぞくりと何かが背中を駆け抜ける。
(こんな、の……っ)
 それは初めての感覚であり、強烈すぎる快楽だった。凄絶な快楽としか言いようがない。
 ちゃぷ、と微かに水音が聞こえた。相変わらず躊躇う様子も見せず、エドワードは舌を絡める。時には軽く銜えこみ、吸い上げる。
 誰よりも賢く、プライドもそれなりに高かった兄が、自分の陰茎を口に含み、舐め上げている。とても信じられない光景なのに、それは事実でしかなかった。
「兄、さ……っ!」
 瞬く間にアルフォンスが上り詰めたのは当然のことだろう。その快楽に免疫がないだけでなく、煽ったのは誰よりも大切な、血の繋がった兄なのだから。
 ごくり、と息を飲んだ。それに呼応するように、エドワードも何かを飲み込んだ様子だ。……それがなにかを、少し遅れて理解して更に驚愕した。
「ご、ごめ……っ」
 上り詰めた事実は自分で嫌でもわかる。更に、その結果彼が飲み込んだものも然りだ。慌てて謝罪の言葉を口にしたが、エドワードはアルフォンスを見て微笑んだ。
「悪くなかったろ?」
 その笑みはどこまでも淫靡だった。昼間、太陽の下で笑っていた彼と同一人物とは思えないほどに。
「誰だって溜まってるときなんてあんだから、もう気にすんな。オレ、ちょっと水飲んでくるから先に寝てろよ」
 だが、口調は変わらない。窘めるように、慰めるように彼は言い、未だにほとんど身動きしないアルフォンスをあやすようにぽんぽん、と肩を叩いた。
 先ほどまで弟の陰茎を口に含んでいた態度にはどうにも見えない。ただ、じゃれあっただけのように、彼は不自然なほど、自然だった。それがいかにも当然だ、とでも言うように。
 けれど、どう考えてもこれは普通の出来事ではないはずだ。絶対に。
 それは分かるが、それ以上のことをアルフォンスも考えられない。兄が自分の欲望を当たり前に解き放った、その事実を受け入れるのがやっとだった。
 なんで、と思った。どうして、と。
 けれどいくら考えても分かるはずなどない。
 そのうちエドワードが戻ってきたが、彼は特に気まずく思うことはないらしい。
「ほら、なにやってんだ。もう寝ようぜ?」
 そう言う彼の表情は、先ほどの淫靡なそれではなく、兄が弟に向けるそれでしかない。いかにも当然、とばかりに先ほどと同じようにアルフォンスの隣に身体を横たえる。
「兄さん」
 何を言って良いのかわからないまま、兄を呼んだ。
「どうした、アル? ……もしかして足りなかったか?」
「そ……っ、そんなんじゃ、なくてっ!」
「じゃぁ良かったじゃねぇか。すっきりしたろ?」
 あっけらかんと言われ、二の句が継げない。それは確かにその通りだ。その通りではあるが、だがしかし、それだけですむ問題ではないはずだ。
「早く寝るぞ。お前、明日学校だろ」
 言いたいことだけを言って、エドワードはそのまま眠りの世界へと旅立っていく。その様子をひたすらに呆然として見入った。
 実の弟に性的な意味で触れたというのに、彼には少しも罪悪感が見あたらない。確かに昔から多少は常識に囚われないひとではあったけれど、些か今夜のことはアルフォンスにとっても衝撃的すぎた。
 ちらりと時計を見る。夜明けまで数時間ある。エドワードの言うとおり、明日は確かに学校に行かねばならない。けれど、今日はもう眠れないことくらい、とうに分かっていた。
 闇の中、アルフォンスはひたすらに混沌の世界に存在していた。


 ――――どうしようもなく深い、混沌の世界に。 

◇ ■ ◇


 翌日は当然ながら寝不足だった。あの後、とうとうエドワードは起きることがなかったが、アルフォンスは起きる以前に眠れないに等しかった。
(まぁ、少しうとうととできただけましだけど)
 そう思い、自分を慰める。朝起きてみれば、やはりエドワードはいつも通りだった。自分の知る兄が存在し、自分にあれこれと話しかける。
「今日は早く帰れるはずだから、久々にオレが夕食作っとくな」
 朝食のパンを千切りつつ、言われてうん、と頷く。ちら、とエドワードの様子を伺ったが、昨日の朝となにも変わらないエドワードがいるだけだった。昨夜、あんなことをしでかした人物と同じとはとても思えない。昨夜はあれだけ滲ませていた淫靡な空気も、今はやはり存在しない。
 だが、あれを夢だとは思えなかった。しかしエドワードにとっては余程ささやかなことだったのか、気にした様子は微塵もない。
「どうした、具合悪いのか?」
 兄さんのせいだよ、という台詞は言い出せなかった。あまりにもあっけらかんとしてる彼を見ていると、おかしいのは自分の方なのだろうか、という気がしてくる。
 けれど、やはり昨夜のあれは一般的なこととは思えない。あれはたしかに、異常な事態だったはずだ。だが、言葉に出すことは躊躇われた。
「別に、平気だよ。夕食、楽しみにしてる」
「おぅ。じゃ、行ってくるな」
 アルフォンスが言うと、エドワードはやはりいつも通りに溌剌とした笑顔を見せた。そうして、最後の一切れとなったパンを口の中へ放り込むなり立ち上がる。
「行ってらっしゃい」
 平静をどうにか装い、いつもの口調を思い出して言ったが、視線はエドワードの唇ばかりを見つめてしまう。今も租借を繰り返すその部分が、昨日は自分を導いたのだ、と思うと、見ているだけで赤面しそうになる。それなのに、見つめずにはいられなかった。
 やがてエドワードは出て行き、そっとため息をついた。朝は忙しないから会話もあまりないが、夕食時はまた話が変わってくる。
(まぁ、考えても仕方ないけど)
 兄は昔から、自由奔放だった。そしておそらくは性についても然りだった、ということだろう。
 そうでなければ、あんなにも躊躇いなく実の弟の性器を口に含めるはずもない。本来は恋人同士でさえするとは限らないほどの行為だ、ということくらいはアルフォンスも知っていた。 
(ボクも学校行こう)
 時計を見ていつも通り動き出す。それは束の間の日常だった。
 現在、アルフォンスはエドワードの薦めもあって学校に通っている。エドワードは、と言えば、フリッツ・ラングの秘書めいた仕事をしているらしい。ウラニウム爆弾を探すための旅には資金がいる。つまりはその資金作りの為だった。
 資金がいるのに一方でアルフォンスを学校に行かせるのも妙な話だが、話し合った結果、行くことに落ち着いた。どうやらエドワートしては、アルフォンスに『この世界なりの平凡な幸福』とやらを実践させたいらしい。アメストリスにいた頃は事実上、あまり学校には行かなかったから、そのことを気にしているらしかった。……アルフォンスに言われば、それはエドワードも同じなのだが。
 幸い、この世界でもアルフォンスの頭の出来は悪くない様子で、学費は免除された。おかげで比較的罪悪感はないが、それでも普段はエドワードが働き、自分は単純に扶養されている身だとどうしても申し訳ない。せめて学生でいるからにはそれなりの結果を示したいところだが、今日は『優等生』でいることも不可能そうだ。
 軽くため息をつき、そういえば、と昨日出された課題を思い出す。期限は来週のレポートがあったから、それを今日は片付けることにして、講義に出るのはやめておこう。どうせ人の話など聞けはしない。レポートも集中できるとは思えないが、図書館に籠もれば迷惑もないだろう。
(確か、神話に関する課題だっけ)
 この世界のことはあまり詳しくないアルフォンスにとって、神話は無論縁がなかった。そもそも、錬金術師はあまり伝説の類を信じない。――――それでも賢者の石を自分たちは追い求めたが、それはともかく。
(まぁ、知識を増やすのは単純に楽しいし、嫌いじゃないけど)
 おそらくは、そんなアルフォンスを知っているからこそ、エドワードは学校に行くことを奨めたのだろう。兄はいつでも、アルフォンスを大事にし、慈しんでくれる。
(でもやっぱり、昨日のはマズイよね)
 昨夜のエドワードはどこまでも別人だった。逃げることも避けることもできなかった。……したくなかった。そして結局、自分は望んで彼の奉仕を受けた。どう考えても、普通ではない。それは分かっている。
 ――――分かっているが、嫌悪は存在しない。否。
 もっと先を、自分は望んでいる。
 昨夜、あの後もしも彼に『足りない』と言ったならばどうなっていただろう。彼は自分に身を任せただろうか。それを、アルフォンスが本気で望んだならば、彼は彼自身すらアルフォンスに与えてくれただろうか。
 その疑問はあまりにも狂喜じみている。それは分かっている。
 だが、それでも考えずにはいられなかった。それほどまでに、美しく淫靡な兄は魅惑に溢れていた。
 あの、まるで夜の化身のような兄は。
 思い出し、思わず自嘲の笑みを浮かべる。結局、自分は多少困惑したところで、あの行為そのものを後悔してはいない。寧ろ望み、喜んだ。そして今は確かに、その先を望み、期待している。
 ――――実の兄を抱きたい、と。そう思う自分が存在している。
 それは明らかに禁忌だ。それなのに、自分は望んでいる。あの綺麗なひとに触れたい。手に入れたい。彼が欲しい。
(やっぱり倫理観が薄いのかなぁ)
 幼かったとはいえ、人体錬成を行った自分たちだ。倫理観が欠如していても不思議ではなかった。
 そこまで考えて、なるほど、と思う。
(兄さんは、倫理観の一部も持って行かれてたのかな)
 真実は分からない。だが、それも可能性の一つではある。アルフォンスは人体錬成によって身体一つを失った。エドワードも、身体の一部を。だが、身体の一部『だけ』だったとどうして断言できるだろう。
 もしもその仮説が正しいのならば、エドワードの中で昨夜の出来事も禁忌にはならないだろう。性に関する倫理観だけが欠如したとするのならば。おそらく、それは兄弟だろうと男同士だろうと、彼にとっては意味のない事と言うことになる。
 無論、結論はアルフォンスには出せるはずもない。心には形が存在せず、確かめる術もなかった。
(分かったことは一つだけ、か)
 そう。一つだけ、分かったことがある。自分は実の兄に欲情しているという、そんな歪んだ事実だけが、アルフォンスに残された真実だった。

◇ ■ ◇


 適当な時間にレポートを切り上げ、帰宅してみると確かにエドワードは仕事が早く終わったらしい。すでに帰り、食事の支度をしていた。
「ただいま、兄さん」
「おぅ、おかえりアル。今夜はシチューだぞ」
 それは玄関を開けたときから分かっていた。その香りが漂っていたし、そうでなくとも兄が料理をするといえば、切るか千切るかするだけのサラダと、彼の大好物のシチューばかりだ。もっとも、別に不満はなかったが。
「うん。美味しそうだね」
 鞄をソファに置き、料理するエドワードの元へと歩を進めて鍋を覗き込む。そこには、すでに煮込んでいる状態のシチューが存在していた。焦げ付かないように掻き回す兄はいつもと変わらない。そんな彼の横顔を見て、やはり綺麗だな、と思った。
(昨日まで、そんなこと意識したこともなかったのに)
 欲望だってそうだ。実の兄に対して、そんな望みを持っていることなど自分は知らなかった。曝いたのは兄だ。
 綺麗で優しくて、誰よりも大切で。そしておそらく、誰よりも淫奔な兄が、アルフォンス自身すら知らなかった欲望を暴き出した。
 そっと後ろから抱きしめると、想像していなかったのだろう。エドワードはびくりと震えた。
「どうした、アル」
「兄さんが、好きだなぁって思って」
「どうしたんだよ急に。オレだって、好きだぜ?」
 その会話はまるで幼い日々のようだ。そうだ。幼い頃から、自分は兄が好きだった。それは今と違ってもっと真っ白で、肉欲など欠片もない、とても純粋な気持ちだったけれど。
「今日はお前も早かったんだな。てっきり、もう少し遅いと思ってた」
「今日はレポートだけやって帰ってきたから」
 実際はそのレポートもあまり進まなかったが、わざわざ事実を伝える必要もないだろう。そう思い、彼を抱きしめたまま告げる。
「そっか。どんなレポートなんだ?」
 抱きしめて、改めてアルフォンスは思う。この綺麗な兄は、やはり小柄なのだ、と。少し前までは自分より遙かに高かった身長も、そろそろ差はなくなってきている。あと少しすれば、自分はこのひとの身長を追い越すだろう。
 華奢とは言えない体つきだが、それでもどこか頼りなげな風情が存在している。
「えっと、この世界の神話についてのレポートなんだ。ボクの題材は、夜の女神なんだけど」
「へぇ。随分面倒そうなのやってんだな。どんな神様なんだ?」
 神の存在を信じないエドワードにとっては、確かに面倒だろう。特に興味もないだろうに尋ねるエドワードは、昔のままだ。無邪気で、明るい。
 この年齢で弟に抱きしめられている、という状況に疑問を抱く様子もない。幼い頃のようにじゃれ合っている程度の感覚なのだろう。
「世界で最初の神様の一人らしいよ」
 資料には、夜の女神は混沌から生まれ出でた、と記されていた。恐れられ、尊ばれた女神は兄弟と交わり、愛欲を含めた数々の神々を産んだ、と。
(まるで、兄さんだ)
 自分に混沌を与え、愛欲を与える。彼は女ではないから、女神のようだ、と言ったら彼は怒るだろうか。だが、資料を読むとそう思わずにはいられなかった。アルフォンスもエドワードと同じく、神の存在を信じない癖に奇妙だとは思うが、咄嗟に思い浮かんだのだから仕方ない。
 彼は自分にとって、夜の神も同然だ。そして自分も深淵となる。――――夜の神の、眷属になる。
「ねぇ、兄さん」
「なんだよ?」
「ボク、兄さんのこと抱きたいな」
 それはひどく自然に口からするりと出た。もっと緊張するかと思ったのに、ひどくあっけない。
「……オレを?」
「うん。兄さんが好きだから、全部欲しい」
 言いながら、強い力で抱きしめた。そうだ。自分は彼が欲しい。
 かつて、他の誰かもそう思ったのだろうか。そう思い、彼を抱いていたのだろうか。
 不思議と、彼の相手が女だ、とは思わなかった。
 それは昨夜の彼があまりにも淫靡で、女よりも淫猥に見えたからかも知れない。女を誘うよりも、男を誑かす風情にしか見えなかった。
「兄さんの、全部をボクに頂戴?」
 彼には彼の過去がある。その過去には戻れない。だが、自分たちには未来があった。ならば、兄の未来という時間全てを、自分は欲する。
「駄目?」
 尋ねると、エドワードは暫し沈黙した。困惑しているのかも知れない。そんなことを考えたが、エドワードはやがて口を開き、その思考を結果的に否定した。
「……全部、渡せるかはわかんねぇ。身体はお前が望むならいくらでも渡せるけど、どこまでか全部か、オレはわかんねぇし」
 否定の言葉より、肯定の言葉の方が余程その台詞はインパクトを伴っていた。
「けど、お前が望むならオレはなんでもお前に与えたいと思ってる。……なんか、上手く説明できねぇけどさ」
「うん。……そうだね」
 自分の心を明確に言い表すことなど、いくら天才でもそうそうできることではないだろう。
 アルフォンスだってそうだ。欲しい、という言葉だけではとても足りない。独占したい。手に入れたい。それは事実だが、それだけではなかった。言葉にするのはあまりにも難しい。
 エドワードにとって、アルフォンスが大切な存在であることは間違いない。だから、エドワードはアルフォンスの望みを叶えたい、と単純に思っている。それが肉欲を伴う望みであり、本来は禁忌であるとしても、だ。
 だが、もしも彼にその手の倫理観が欠けているならば、確かに彼の全てを入手することは永遠にできない。欠けてしまった、――『持って行かれた』それを取り戻すことは、もはや不可能なのだから。
 けれど、欠けているからこそ、彼はこんなにも簡単に頷くのだろう、と思った。
 ――――――――無論、全ては仮説だとどこか遠い思考で理解していたが、別に真実などどうでも良かった。こうして抱きしめている、この存在が手に入るならば、真実でも虚構でも、何でも良かった。構わないと、そう思った。
「全部じゃなくても良い、なんて言えないけど。でも、ならせめて、今の、ありったけの兄さんが全部欲しい」
 自分はこんなにも、欲深かっただろうか。だが、逆に言えば欲しいのは彼だけだ。兄だけ。たったひとり、この人だけが自分は欲しい。できるなら、本当にその全てが。
 背中から抱きしめてしまったから、エドワードの表情は見えない。そのことが少し、残念だと思った。彼は今、どんな表情をしているだろう。
「だから、兄さんが抱きたいんだ」
 言ってから、首筋に唇を落とした。長旅を辞めたからか、それはひどく白く見える。
「お前が、望むなら」
 やがてエドワードはそう言った。躊躇いもない。迷いもない。常識も、ない。
 それで良い。そんなものはもう必要なかった。
「大好きだよ、兄さん」 
 言うと、エドワードは笑った。そして告げる。
「俺もだよ、アル」
 彼の『好き』は自分のそれとは違うかも知れない。だが、それでももう構わなかった。彼は自分が望むならば与えると言った。もしも与えられないのならば、奪うだけだ。たった、それだけのこと。
 彼の許可も取らず、火を消すとエドワードの腕を引いた。性急なアルフォンスの動きにエドワードは少しばかり驚いた様子だったが、制止の声はかからない。それどころか、甘い声で囁きさえした。
「ベッドに、行くか?」
 無論、即座に頷いた。待つ必要など感じない。今すぐ、彼が欲しかった。

◇ ■ ◇



「……っ、ん、……っぁ、あぁ」
 どこまでも、彼の声音は甘かった。アルフォンスが穿つ度に、エドワードは喘ぎ、鳴いた。彼の内側は熱く狭い。たまらなく、良かった。
 手に入れた、という充実感と、そして深すぎる快楽。自分の腕の中に、彼がいる。
 経験の薄い自分には良く分からないが、おそらくエドワードはかなり感度が良いのだろう。少し触れるだけで、たちまち身体が反応する。繋がる瞬間だけは一瞬だけ怯えた表情を見せたが、その風情も良かった。
「兄さん、気持ち良い?」
 からかうように尋ねると、エドワードは生理的なものだろう涙を溢れさせつつ、何度も頷く。
「良ィ……っ、ぁ、……アル、……アル……っ!」
昨夜はあれほど余裕ありげだったのに、今はその面影すらエドワードからは見られない。余程快楽に弱いらしい。今はアルフォンスを受け止めることに精一杯の様子だが、その全てがあまりにも淫猥だった。
「兄さんの、……中に、出しても良い?」
 もっと卑猥な彼が見たくて尋ねると、また彼は頷いた。
「……て。……ぜ、んぶ……っ、アルの、……っ、オレの、中……っ」
 躊躇いはやはり見られないまま。今はもう、兄の顔の名残はない。けれど、事が終わればすぐに彼は再び兄の表情を浮かべるのだろう。エドワードにとって、それは特異なことではないはずだ。どうしようもなくアンバランスだけれど、本人だけがその事実を知らない。
 そして教えるつもりもなかった。エドワードはアルフォンスの兄であり、恋人になる。ただ、それだけのことだ。そのことだけを彼が認識すればそれで良い。それが普通であるか、異様であるかなど、アルフォンスにはどうでも良いことだった。だから、彼は知る必要もない。これが禁忌であることなど。――――人体錬成とは違った意味で、許されざることなのだ、ということなど。
 彼は、何も知らなくて良い。
 口元に笑みが浮かんだ。そのまま、耐えきれなくなって彼の内側に吐精する。征服感が満たされるのを感じた。
「……っ、あぁ、――っ、……!」
 アルフォンスの昂ぶりを受け止め、そのままエドワードも終焉を迎えた。同性を受け入れ、彼は快楽を享受する。声音も表情も、いかにも感じきっていて、蕩けそうな様相だった。
 彼の過去は手に入らない。どんな相手が彼に触れたのか、知らないし知っても意味がない。だが、自分以外にそんな存在がいた事実が許せない、とも思う。
 それは嫉妬だ。分かり切っている。そしてその感情は一生、永遠に存在し続けるのだろう。だが、それでも彼が手に入るというのならば、その嫉妬という名の闇ごと、受け入れる覚悟はもう存在している。それほどまでに、自分は彼に溺れていた。
 だから、自分は過去の代わりに未来を手に入れる。未来の、全てを。
 エドワードの頬に触れ、涙を拭った。どこまでもその表情は淫猥だ。魅入られない人間などいるのだろうか。こんな、誘惑に満ちた存在を、彼以外アルフォンスは知らない。
 彼は確かに、夜の闇だ。誰よりも輝かしい太陽色の髪と瞳を持つ、美しく深い闇。――或いは、己の闇を曝く月なのかもしれない。
 自身も似た色彩を持ちながらも、そう思わずにはいられなかった。そんな自分に自嘲する。
(それでも、良い)
 何度目かのキスを重ねた。エドワードは心地良さげな表情を浮かべ、アルフォンスの舌を受け入れる。それだけで、再び自分の身体に熱が灯った。
 闇でも地獄でも、何も恐れるものは存在しなかった。彼の消失以外は、なにも怖くない。だからアルフォンスはエドワードを抱きしめる。もう、離さない。離れない。それは自分だけが知る、ささやかな決意であり、



――――或いは、神に捧げる祈りだった。


END


※NYX(ニュクス):夜の女神