SCHLUESSEL






 結局、だいたいの処理が終了するまでにはおよそ五時間ほどを要した。被害は一応最小限で済んだとはいえ、線路を爆破された以上、明日――日付上は今日だが――はまた嫌味のフルコースだろう。
(まったく、暇があって羨ましいことだ)
 自分にくだらない嫌味を言う暇はある癖に、本来の『軍人』としての責務をはたすことができない人間が実に多い。 だが、彼等がのうのうと幸福を甘受し、くだらない嫌味や苦言に精を出せるのも今のうちだ。そのうち、全身全霊で後悔するようにしてやる。
 しかし、とりあえず今考えるべきことはそんな役立たず共のことではなかった。
 目前に迫った我が家を見たが、明かりは灯っていない。
命令として告げた以上、エドワードはいるはずだ。彼としては非常に腹立たしいだろうが、彼は従わざるを得ない。
 それなのに明かりが灯っていないということは、彼はおそらく眠っているのだろう。好きにして良いと告げたのは自分だし、時間を考えれば当然のことだ。特に不満はなかった。
 歩を進めながら、彼を起こすべきか、と考える。本来ならば起こすべきだ。自分としては、エドワードに自分が彼に対して本気で恋情を抱いていることを理解してもらいたいと思い、だからこそホテルへと返さなかったのだから。
 とはいえ、彼が待っているからと帰宅することにしたが、どうせ自分はまた三時間後には軍に戻らなくてはならない。場合によっては何の解決にもならないまま、タイムリミットがやってくる可能性もある。
更に言うなら、今は深夜としか呼べない時間帯だ。まして、彼は連日の旅でさぞかし疲れているだろう。更に数時間前に疲れさせたのは他でもないロイだ。それを考えると、このまま寝かせてやったほうが良いような気もする。
 それなら何のために呼びつけたと彼は怒るかもしれないが、もし今、彼が束の間でも安息の眠りを得ているのならば、邪魔したくない。
(……寝かせておくか)
 結局、出た結論はそれだった。彼は怒り、そのまま当分姿を見せないかもしれないが、それも仕方ない。それに、言葉で説明しただけで彼が理解する、とも思えなかった。どんなに言葉を尽くしても、エドワードがその言葉を虚無だと思えばそれまでだ。少なくとも、先ほどのエドワードはそうだった。
 本当に、どうすれば。何を言えば彼は分かってくれるのだろう。こんなにも決死で、不様な恋をどうすれば伝えられるのか。
 そんなことを考えているうちに家の目の前へと到着する。無意識に鍵を探したが見つかるはずもない。すぐに彼に渡したのだと思い出した。
(……つまり、私は自分の家に入れない、ということか)
 あまりにも当たり前の事実。鍵がなければ入れるはずがない。エドワードが開けっ放しにしていれば無論入れるが、はたしてどうだろう。
 面倒だが扉を錬成するしかないだろうか、等と思いながら更に歩を進めると、思いがけない光景に出くわした。
「……鋼の?」
 思わず、呆然として呟く。てっきり、部屋で眠っているだろうと思っていたのに、エドワードは玄関で座り込んでいた。暗くて表情は見えないが、動きはない。更に近づき、彼が眠っていることを確認した。
 鍵を渡したのに、何故玄関先で眠り込んでいるのだろう。浮かぶのは、そんな当然の疑問だ。
 とりあえず、彼を寝室へと移動させた方が良いのは確かだ。旅慣れている彼のことだから、外で眠るのは慣れているのかも知れないが、環境が許すのなら野宿よりは屋内で眠った方が良いに決まっている。
 エドワードのコートを探ると、程なく鍵が見つかった。ちゃり、とそれはロイの掌で小さな音をたてる。その音に気付いたのか、それともコートを探る感覚で異変を感じたのか、彼が目を開いた。
「……大佐?」
 ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。それから大きくエドワードはあくびをした。まだ眠いのだろう。目を擦りながら口を開く。
「オレ、いつの間にか寝てたみたいだな」
「そのようだね。鍵を渡して、好きにして良い、と言ったはずだが、どうして君はここで寝ているのかな」
 言いながら鍵を差し込み、扉を開いた。
「鍵渡されたって、他人の家になんか家人がいねぇのに入れるかっての。つーか、鍵なんて大切なもんを簡単に渡すなよ」
「君がそんなに律儀だとは思わなかったな。私にしてみれば、君になら合い鍵を渡しても良いくらいだが。……そうだな、今度作っておこう」
 無人の家に入り込むのは確かに勇気がいるかもしれないが、彼のことだからそのうち遠慮もなくなるだろう。そんな風に考えて軽く言うと、彼は僅かに顔色を変えた。
「絶対いらねぇ」
「鋼の?」
「そんなん絶対いらねぇから、作んなよ!」
 ひどく強い調子で彼は言う。ただ、鍵を渡す、と言っただけなのに彼は何故怒るのだろう。
 否。怒る、というのとは少し違う。惑っているわけでもない。まるで、――そう、まるで。
(……怯えている?)
 怯えて、虚勢を張っているかのように見える。だが、鍵を渡すだけなのに怯えるはずもない。
「だが、玄関先では待つのも大変だろう?」
「別に。もっと過酷な場所に行くことだってあるし大変なんかじゃねぇよ。とにかく、鍵なんかいらねぇ」
 言い捨てて、彼はロイの家へと足を踏み入れる。鍵の話題はもう終わった、と言わんばかりの彼の態度に内心首を傾げたが、ずんずんと歩き出す彼を黙って追った。
 何度か来ているからか、彼の歩調は迷いがない。慣れた足取りで今まで行くと、どかりとエドワードはソファに腰を下ろした。その場所が、どうやらこの家では彼の一番のお気に入りであるらしい。
「そんで、オレはどうしてこの家に呼ばれたんだよ」
 尊大な態度で問われたが、今日はもう寝かしてやろう、と先ほど結論がでたばかりだ。だから問いには答えず、違う言葉を紡いだ。
「……その話はまた今度にしよう。今日はもう、このまま眠ると良い」
「あ?」
「それとも、寝る前に風呂にでも入りたいかい?」
 不機嫌そうな声を無視して、さらに違う問いを返すと彼は目をつり上げる。
「オレはこの家に寝に来たわけじゃねーってのっ!」
「知っているが、私の方が残念ながら時間がないんだ。三時間後には仕事に戻らなくてはならない。だが、その時間で目的が達成できるかどうか、残念ながら自信がない」
 肩を竦め、微笑む。エドワードは尚も不満そうに自分を睨み付けていた。
「そんなん、やってみなきゃわからねぇじゃねぇかっ!」
「確かにそれはそうだな」
 それはその通りだが、しかし彼が理解してくれなかった場合、自分の心理的なストレスは相当なものだろう。それが自分は怖いのかも知れない。
 今までの自分が悪いと言われればそれまでだが、自分の心を証明する物などなにもない。ただ、それが真実だ、と告げることしか自分にはできない。
 はたして、その言葉をエドワードは信じてくれるだろうか。だが、信じる、と彼が言ったとしても、今度は自分がエドワードのそんな言葉を信じられないかも知れない。
 本当は分かっていないのに、面倒で彼が頷いているだけかも知れないと、そんな風に疑ってしまうかも知れない。
 言葉には確かな形など何一つ、ない。計ることもできない。真実とは、なんと難しいものか。
「……その通りなんだが、どう言えば良いのか、正直なところわからないんだ。困ったな」
「ふざけてんのか、大佐」
 うなり声に近い状態で、彼は言う。本気で不機嫌なのが良く分かった。彼を怒らせたいわけでは決してなかったが、怒るのも無理はない。
 むしろ命令されたから仕方なく赴き、玄関で待っていた挙げ句に、用件をどういえば良いのか分からない、と言われれば当然の反応だろう。
「ふざけてなどいないよ。本当に、わからないんだ」
「……あんたが何をわからねぇのか、そっからしてオレには不明なんだけど」
 真剣に困惑していることが伝わったのだろう。僅かにエドワードの表情から険しさが消えた。そんな彼を見つめて、軽く息を吐く。
「君はどうすれば、私を信用してくれるのかな」
「なんだよ、突然」
 何を言い出すのか、とでも言いたげにエドワードは首を傾げた。
「君か、それとも神にでも誓えばいいのかな」
「……あんたがなんの話をしてぇのか、オレにはちっともわからねぇよ」
 眉根を寄せて彼は言った。その言葉に軽く息を吐く。
「わからないか」
「全然、わかんねぇ」
「……君が女であったなら、きっともう少しは話が簡単だったのだろうな」
 彼が。エドワードが女であったなら。今までも、そう考えたことがないと言えば嘘になる。
「オレが女だったなら、何が変わるってんだよ」
「そうだな。とりあえず、君は私の婚約者だろうな。そうして、君がもう少し大人になったら結婚して、私は浮気などほど遠い、理想の夫にでもなっているだろう」
 だが、それはどこまでも絵空事にすぎない。
 彼は男だ。それを不満とも思わない。性別など、どうでも良かった。ただ、彼という存在が欲しいと、そう恋を自覚した瞬間に思った。
「気色悪いこと言うなって。オレが女でも、あんたと結婚なんかしねぇっての。第一、あんたにとってもメリットなんかねぇだろ」
「その場合、君の意志は関係ないだろうな。君を手に入れる手段の中で一番確実だから、結婚という形式を取るだけだ。君を手にするのだから、これ以上のメリットはない」
 法など、一つの形に過ぎない。だが、人一人を縛るのに容易で便利な方法ではある。彼は変なところで古風な考え方をしているから、本当にもしも彼が女だったならば、それは多少は有効な手だっただろう。
「あんた、さっきから何言ってんだ?」
「結婚した上で浮気などせずに、君だけに愛の言葉を囁き続けたら、君も少しは私の言葉を信じてくれるだろう?」
 浮気などするはずもない。その必要がない。自分は彼だけに恋し続けるだろう。それは予感ではなく、事実でしかないはずだ。ただし、彼がそんな状況を喜ぶかどうかはまた、別問題ではあるが。
「何だよ、それ。あんたがオレに本気で惚れてるとでもいうのかよ」
「無論、その通りだとも」
 彼に対して、一体自分は何度愛しているだとか好きだと告げただろう。
「ありえねぇ」
 きっぱりと言い切られ、苦笑しか浮かばない。やはり、彼は自分を信用してはくれないらしい。
「何故、そう思うのかな」
「あんたがオレに惚れる理由がない。あんたは女好きなんだしさ。オレを口説いたのは最初は気まぐれで、後は単純にオレが頷かないから躍起になっただけだろ」
 確かに、最初に彼を食事に誘った当時は、それこそ気まぐれと言っても良いだろう。彼の言うとおり、躍起にもなった。だから、その洞察力は正しい。
「オレは妊娠とかしねぇし、あんたにとってもそこそこ都合の良い相手だろうし。暇つぶしには丁度良いだけだ」
「だから、私は本気ではない、というわけか」
 どこまでも頑なな子ども。本当に、本気で彼はそう信じているのだろう。
「それでは、君は私の希望を仕方なく叶えて、抱かれているのかな」
 彼の上司であり、後見人である自分の立場は、エドワードにしてみれば絶対のはずだ。基本的にふてぶてしい態度を取るが、彼には自分の言葉に従う義務がある。
「半々、ってとこだな。最初はオレ、乗り気じゃなかったし。けど、今はそーいう気分になる時もあるからさ」
「なるほど」
 ロイにとってエドワードの関係は気まぐれの延長線。
 エドワードにとってのロイとの関係は命令遂行、または彼にとっても単純に性欲処理、ということか。
 軽い虚無感が自分を覆う。憤りを感じる気力もなかった。本当に、自分は彼に心底信頼されていないらしい。
 どうしてこんなにも頑なに彼は自分の言葉を信じてはくれないのだろう。
(まるで、私の言葉を決して信じたくないかのようだな)
 そんな風に思い、皮肉気味に自嘲する。エドワードが今までの自分言葉を全て、偽りとして受け止めているのなら、もう笑うしかなかった。
「なんだよ。別に不満に思うことなんか、何にもないだろ。なんでそんな投げやりに笑うんだよ」
 どこか居心地の悪そうな様子で言う彼に、ただロイは笑う。言葉も浮かばなかった。
 切ない、とはこんな時に使う言葉だろうか。自分の気持ちを信じてはもらえない、その事実が切ない、と。
「そんな顔で、笑うなって」
 そう言われても、今自分がどんな表情で笑っているのか、自分ではわからない。だがきっと、ひどく情けない風情なのだろう。不可思議なほど、エドワードが困惑している様子が伝わってくる。
「頼むから、そんな顔すんなよ。どうしていいのか分かんなくなるだろ」
「そう言われても、私もどうしたら良いのか分からない」
 困り切った表情で言われ、そう答えた。言葉をただ重ねても、それは今までと変わらない。だから、彼はやはり自分を信じはしないだろう。
 どうしたらいいのかと、どんなに考えても答えなどでない。堂々巡りにしかならない。
「どうすれば良いのかな、鋼の」
 何をすれば彼は信じてくれるのか。そう問うと、エドワードは頭を振った。
「……別に、今のままで良いじゃねぇか。なんで、そんなに拘るんだよ」
(今のまま、か)
 確かに、これまでは不満など感じなかった。彼が自分に恋していなくても良いと思っていたし、彼が抱ければそれだけで、それなりに満足だった。
 ――――満足していた、つもりだった。
 けれど実際はこの有様だ。ただエドワードを抱ければ良い、というものではなかったらしい。
 それだけでは、満足などできない。自分は欲深い人間なのか、それとも恋をすれば皆そうなってしまうものなのか。それはわからないし、興味もないが、とりあえず事実は事実として理解した方が良さそうだ。どこか諦めにも似た境地で、そう思う。
「今までのままでは、いられそうにない」
 最初はただ、彼と食事でもしようか、という程度の思惑だった。そのうち、誘いに頷かない彼を頷かせたくなった。食事の回数が増えれば、彼と過ごす時間をもっと増やしたいと思うようになった。そうやって、欲望は増えていく。際限などきっとないだろう。
 けれど、エドワードはこれ以上変わらないことを望んでいる様子だ。変化を求めていない。
 そう、先ほども思ったではないか。彼は、まるで。
 ――――――怯えているようだ、と。
 それは『鍵を渡す』という、自分たちの変化に対して怯えたのではないだろうか。彼は変化をしたくない、と思っている。願っているのかもしれない。
 相対する、互いの希望。このままでは、どこまでも堂々巡りだろう。自分は変化を望んでいる。彼は今のままを望んでいる。どこにも交差点は存在しない。
「……んで、んなこと言うんだよ」
 頼りなげな口調で、エドワードが問う。何故、今のままではいけないのか、と。
「それは愚問だな。私が君に本気で恋しているから、としか言いようがない」
 本気でなかったなら、もっと事態は簡単だった。エドワードのことを彼の言うとおり、ただ都合の良い相手と自分が思えたのなら。もしそうだったなら、変化のない関係にそのうち飽きて、そこで終われたかも知れない。だが、今の自分は終わることを望むことすらできない。
「あんたは勘違いしてんだ。オレに本気なんて、そんなのあり得ないのに」
「勘違いなら良かったと、今は思うよ」
 そうしたら、こんな不様な自分を知ることなどなかっただろう。その方がきっと自分は幸福だった。それでも、この恋を後悔することはできない。不様で醜悪な恋だと知りつつ、諦めることもできない。
「あんた、きっと疲れてんだ。少し休めよ。そしたら、起きたとき何言ってたんだろうってきっと思うぜ?」
 優しげな口調で、そう言う彼は惑った表情を浮かべている。平行線の会話を良く彼が続けているな、と思った。いつもなら、苛立って帰ってもおかしくないだろうに。
「疲れているのは認めるが、それは思わないだろうな。自分の気持ちを誤解するほど若くない。君はどうして、そんなにも私が本気である、と思いたくないのかな」
「……だって、あり得ないだろ」
 ぼそぼそと小声でエドワードはまたあり得ない、と言った。先ほどから、彼はその言葉ばかり繰り返している。
 変化を求めないエドワードにとって、『あり得てはならない』ことだからだろう。
 だが、どうしてそんなにもロイが本気であることを、即ち自分たちの変化を恐れるのだろうか。
 ――――彼は何を怯えているのか。
(そうだ。何故、疑問に思わなかった)
 そんなにも頑なに、何故変化を拒むのか。恐れるのか。
「鋼の」
「何だよ」
「君は何故、変化を恐れるのかな」
 その問いに、エドワードが息を飲んだ。
「べ、別に怖がってなんかねーっての。あり得ないからあり得ねーって言ってるだけで!」
「本当に?」
「当たり前だろっ!」
 自棄気味のように怒鳴られたが、納得できるはずもない。彼は確かに、変化を恐れている。
 ―――何故。何を、畏怖しているのか。
「なら、質問を変えよう。何故、今のままが良いと君は思う?」
「……今のままのが、お互いに都合良いだろ。やりたいときに会って、やって。べたべたしたりとか、馴れ合う必要なんかねぇっての」
 確かに、単に性交をするだけの相手ならその通りだ。それ以外、本当に望まない相手なら。
「それが私である必要などないだろうに。君が望めば、相手は他にいくらでもいる」
 もっとも、その相手を自分が知れば、おそらく生かしはしないだろうが、それは今言うべき事ではないだろう。
「そんなの、あんたのせいだろっ!」
 唇を尖らせ、エドワードは言った。
「他の相手なんか知らねぇし、知りたくもねぇしっ。あんたしかいないんだから仕方ないだろ!」
 まるでそれは告白のようだった。それも、熱烈な。
「あんたといると、どんどんオレはおかしくなる。最初は自分からしたいなんて、絶対思わなかったっ。けど、今は……っ、あんたとしたいなんて思うんだ」
 それはもう、仕方ない。だけど、と彼は言った。
「これ以上、変わりたくなんかねぇ……っ!」
 その言葉。その、台詞。悲痛ささえ、存在するというのに。それなのに。
 本当は、歓喜して聞くべきではないのだろう。けれど、嬉しいと思った。どうしようもなく。
 そうだ、と思う。
 彼は子どもだ。子どもだったのに、その事実を自分はどこか忘れていたのかも知れない。
 告白のよう、ではない。これは告白だ。本人は気付かないまま吐露するその言葉は、告白としか呼べない。
 恋をして自分は貪欲になった。彼もまた、そうだとしたら。
 自分は確かに、恋を知る前と今では変わったように思う。その変化すら、楽しいと思った。だが、彼は子どもで。だから、怖い、と思った。それはきっと、無理なからぬ事だろう。
「変わらぬ事など、不可能だ。鋼の」
「嫌だ」
 幼子のように、彼は呟く。
「変化は必ず訪れるよ。どんな形であれね。それが人間という生き物だ」
「でも、嫌だ。これ以上変わるのは嫌だ。そんなのは、嫌だ」
 駄々を捏ねるかのようなその口調に、思わず口元が緩んだ。賢い彼のことだ。本当は変化を止められる術などありはしないことくらい、承知しているだろうに。
 だが、それが嬉しい、ともう一度思う。彼がそんなにも怖がる変化を自分が与えたという、その事実がひどく嬉しい。
 そう思う自分は、どうしようもなく残酷なのだろう。きっと。それでも、嬉しい、と思う感情は止められない。
 エドワードは自分によって肉欲を、快楽を覚えた。それこそ、自ら望むほどに。その変化を受け入れることはできても、一方でせめてこれ以上は変化したくないと彼は望む。
 けれど、変化が怖いと。そう思う時点で、彼はやはり変貌を遂げているのだ。何も知らない子どもでは、もうなくなってしまったのだから。
「すまないね」
 謝罪の言葉を告げながら、けれど罪悪感はやはり感じない。誠意の欠片もない言葉だと我ながら思った。
「……絶対、嫌だ。アルは変わらない。変われねぇのに……っ!」
 涙が彼の頬を伝った。その雫を、そっと拭う。悲痛と言っていい、その台詞。アルフォンスは鎧姿である限り、容姿は変わらない。けれどエドワードは成長を続ける。その単純な現実だけでも、彼にとっては重荷だったのだろう。更に、エドワードは内面までも変化を遂げている。そんな自分自身を彼は許せない。
「君が変わるのは私のせいだ。君のせいじゃない。だから、自分を責めなくて良い」
「けど、オレは……っ」
 尚も変わりたくないと呟くエドワードの髪に触れ、口づける。彼はこんなにもいとけない子どもだったのに、自分が変化させる。多分、これからも。
「鋼の」
 なだめるように銘を呼び、後から溢れる涙を指でもう一度拭った。
「明日、この家の鍵を作ろう。君のための鍵だ」
「……嫌だ」
 声は小さい。けれど、はっきりとした拒絶だった。
「鍵なんて、いらない。作っても、絶対使わねぇし。…そんなの、駄目だ」
(……?)
 いらない、使わない、は分かるが、何が一体駄目だと言うのだろう。尋ねようとして、けれどすぐに気がついた。
(……そういう、ことか)
 彼には帰る場所がない。彼の家は焼いてしまったと、そう本人から話を聞いたことがある。だからどこにも、自分たちは戻れない。だからひたすらに、前に進むのだ、と。そう言っていた。
 彼は留まってはいけない。止まっては、いけない。
 けれど、この家の鍵を渡せば、それは即ちここが彼にとっての『帰るべき場所』になってしまう。少なくとも、そう彼は定義している。だから、彼は鍵を拒絶する。
 鍵を渡す、ただそれだけの行為だが、彼にとってはあまりにも大きな意味を持つ。おそらくはそういうことだ。
 『帰るべき場所』は存在してはならない。絶対に。だから、『駄目』なのだろう。
 もしかしたら、ロイの言葉を信じないのも、変化を恐れる、ただそれだけが理由ではなかったのかもしれない。
 ロイの言葉を信じれば、それは即ち、家ではなくロイ自身こそが彼にとっての『帰るべき場所』になるだろう。
 だから彼は無意識のうちに、その可能性を消去した。そんな現実はあり得ないのだと。そう信じ込んだ。
 ロイは本気ではない。だから、帰る場所など自分には存在しない。留まる場所など、存在しない。
 それは存在してはいけない場所なのだから。きっと、そんな風に彼は彼自身に咎を与えた。まるで彼自身の心に、頑なで重い、そんな鍵をかけるかのように。
 哀れな子ども。愚かな子ども。そんな子どもが、どうしようもなく愛しい。
「今のままが、良いんだ」
「それは無理だと、先ほども言っただろう。鍵は作る。それは君の物だ。ただし、必要ないなら捨てれば良い」
 必要になるまで、自分は作り続けるだろう。彼のための鍵を。彼が自分の元を戻るべき場所だと、そう思ってくれるまで。
 自分という存在が、彼の心の扉を開く鍵になれる、その日まで。
「いらねぇって、言ってるのに。あんた、ひどい奴だな」
「そうだな。自分でもそう思うよ」
 傲慢で貪欲な大人と、幼く愚かな子ども。
 きっとこれ以上ないくらい、不釣り合いで、そして釣り合いの取れた二人だろう。
「けれど、私は君の変化が見たいんだ」
 これから、きっとまた彼は変わるだろう。肉欲を知らず、震えていた彼が、自分を誘い、微笑んだように。
 おそらくそうやって、会うたびに知らない彼が増えていくのだろう。その様を、自分は見たい。新しい彼を知り、その全てを手に入れたい。
 ――――だから。
「今は、私の言葉を信じなくても良い」
 信じて欲しいとそう思うけれど、今は信じなくても良い。
そっと、彼に口づける。思いの外、彼は大人しく受け入れた。
「だが、君も錬金術師なら偽りではなく真実を見いだすはずだ。それが錬金術師という存在だからね。あまたの虚像の中から真実を探し出し、組み立てる。それが性だ」
 彼は変化する。そして、いつかその変化の果てに自分の言葉が真実であることを知るだろう。
 それはいつなのかまだわからない。けれど、必ずやってくる未来だ。
 鍵は存在している。ただ、扉を開くその日を待つばかり。
 ソファに座ったままの彼ともう一度唇を重ねた。それから、深く抱きしめる。
「君だけだ」
 唇を離して、そう囁く。信じなくても構わない、けれど確かな真実の言葉。
 彼だけだ。こんなにも欲しいと思うのは。愛しいと思うのは。他の誰にも、こんな風に心を奪われたりはしない。
 エドワードはじっとしている。何も言わない。今は、それで良い。
「……先ほどの続きをしようか」
 冗談半分、本気半分で言うと、ぎょっとしたように彼の身体が強ばった。
「先ほど、って……、冗談だろ。さっき二回もしたじゃねぇかっ!」
「駄目かな」
「だいたい、あんたこれからまた仕事だって言ってただろっ。却下だ却下!」
 いつも通りの調子で喚く彼に、更にもう一度キスをする。何度でも。初めは抵抗の素振りを見せたが、だんだん弱くなっていくのが分かった。
「……最低だ」
 やがて呟くのは、そんな台詞。そして彼は笑った。あどけないのに、大人びている。そんな不可思議で魅惑的な笑みを。
 そうやって、また一つ、彼は変化を遂げる。

 ――――扉が開く日は、きっと近い。

そんな、予感がした。

END