Spiege lim Spiegel
3
ミュンヘンの町は、アメストリスとはまた違う翳りがある。
人々の顔は暗く、覇気がない。何かを諦めたかのような表情。または、狂信的に一つの道だけに縋り、何かにまるで憑かれたかのように目をぎらぎらとさせる人間もいる。
インフレはひどくなる一方で、飢えで死ぬ人も少なくないだろう。
鬱屈とした空の下、ゆっくりとエドワードは歩き続ける。
義手はまだ治っておらず、義足も相変わらず調子が悪かった。義足がいまだどうにか壊れていないのが救いだが、これもいつまでもつかはわからない。明日には壊れてしまうかもしれないし、もしかしたら運良く父親が帰ってくるまで壊れないで済むかもしれない。それはもう、運次第だろう。
こんな状態では本来、一人で外になど出るべきではないのだろう。ここはあまり治安も良いとは言い難かった。外出したと知ればロイはまた機嫌が悪くなるかもしれない。彼は妙なところで紳士で心配性気味なところがある。彼に言わせれば君に対してだけだ、ということになるが、女たらしのいうことだから信用はできない。
無論、アメストリスも特別治安の良い国ではなかった。内戦の混乱や、隣国との緊張関係。この町と同じように目つきの悪いごろつきなどいくらでもいた。
ただし、錬金術が使え、機械鎧が存在したあの世界なら、エドワードはそれらを怖い、と思うことなど一度もなかった。恐れを抱く必要など、どこにあっただろう。エドワードには自信も、それを支える実力もあった。
(……今じゃ、見る影もねぇって奴だな)
自嘲しながら、きょろ、と周囲を見回した。あまり歩いたことのない場所だから、さすがに用心深くなる。
今の自分は本当に非力だ。錬金術は使えない。他の人間より、歩き方もぎこちない。片腕は存在しない。
あの頃に比べて、腕力などはきっと明らかに落ちているだろう。戻れたとしても、もしかしたら機械鎧のリハビリを最初からスタートしなければならないかもしれない。
(それは、ちょっと嫌だな)
だが、もし帰れたのなら。それが必要だというのなら、当たり前に自分はその現実を受け入れるだろう。とにかく、今は元の世界に戻ることが全ての目標だった。
適当に、人の良さそうな人間に声をかけ、道を尋ねる。何人かは知らない、と首を横に振ったが、やがて指をさして具体的な道筋を教えてくれるひとも見つかった。
「ありがとな」
礼を言って、その場所へとひたすらに向かった。実際に来たことがなかったから少しばかり不安だったが、どうにか辿り着くことができそうだ。昔なら、知らない場所を歩くのが当たり前だったのに、今はそれを心細い、と思う自分がいる。
それは、隣にアルフォンスがいないからかもしれない。いつでも、旅をするとき隣にはアルフォンスがいた。そうして自分を気遣い、時には叱り、呆れ、そして励ましてくれた。自分より余程人間のできた、最愛の弟。
自分は兄だから、自分が彼を守るのだと思っていた。けれど今なら分かる。自分は彼にずっと守られていたのだと。
だから、今の自分はきっと弱いのだ。彼が側にいない。ただそれだけの理由で。
(お前に逢いたいよ、アル)
彼はきっと、無事のはずだ。自分の全てを賭けたのだから。……けれど、自分はこうして生きている以上、その自信はどうしても揺らいでしまう。だからこそ、元の世界に戻りたい、とそのたびに強く思わずにはいられない。
この世界も、悪いところばかりじゃない。いい人もたくさんいることも知っている。けれど、それでもここはエドワードの居場所ではなかった。
(……大佐も、元気にやってんのかな)
そう思い、自嘲を重ねた。彼の元に行く道も存在していた。だが、それを選ばなかったのは自分だ。それなのに、今更未練がましくそんなことを考える自分が滑稽だった。
彼はどうしているだろう。目的を、果たせただろうか。きっと、生きてはいるだろう。そう簡単に死ぬような、そんな柔な男ではなかったから。
もしかしたら、すでに結婚でもして幸福に暮らしているのかもしれない。
(だとしたら、オレはちゃんとあんたの幸福を願うよ)
今でも、あの男に自分は恋している。彼と瓜二つの男に抱かれている癖に。
それでも、彼が幸福になれば良いと思う。結婚して、子供がいて。そんなささやかな、彼の失った親友が得ていた、そんな生活。穏やかな幸福を彼が手に入れていたら良い。それはどんなに足掻いても自分では与えられない。
顔が見たいな、と思った。同じ顔を毎日こちらの世界で見ているのに、そんな風に思ってしまうのは何故だろう。
(けど、仕方ねぇよな。どんなに似てても、同じじゃないんだ)
こちらの世界でロイと出逢ったとき、自分は錯覚を覚えた。あまりにも、似ていたから。似すぎていたから。だが、それは言い訳にしかならない。
本来は、すぐにでも自分はロイの目の前から姿を消すべきなのだろう。彼はエドワードが元の世界に戻ることを望んでいない。そして情熱的とすら言える愛の言葉を自分に囁く。――あの男と同じ、顔と声で。
そんな風に求められたことはあちらの世界では一度もない。だからこそ、余計にあちら世界のロイとは違うのだ、とエドワードは思い知る。無論、こちらのロイも本気ではないのだろう。ただ、興味本位に囁いているだけのはずだ。
別人と知りながら、無意識に彼を通してあの男を捜してしまう。それが気にくわないというのは当然だし、残酷な真似をしているとも思う。
契約としてでも身体を重ねているのだから尚更だ。
(……義手が治ってたら、オレも旅に出るか)
ロイの所蔵する本の数々は確かに魅力的で、だからそれを理由にこの場所に留まっていたし、関係も重ねた。だが、こんな関係はずっと続けるべきではない。
そんなことを考えながら小さい路地を抜けると、言われたとおり、地味な看板が見えてきた。どうやら目的の場所に無事たどり着けたらしい。思ったより随分と立派な店だ。
目の前まで行くと、すう、と息を吸ってから店のドアを開く。そこには運良く目的の人物がいた。
「いらっしゃ……、なんだ、大将じゃねぇか。どうしたんだ?」
愛想良く笑いかけるジャンに、エドワードも微笑みを浮かべた。
「今、平気?」
「あぁ。そこ、座れよ」
言われて頷く。店の中にはジャンと自分しかいない。店の中は実に殺風景だった。
「二週間ぶりってとこだな」
「うん。それくらいかな」
ジャンがロイの家にやって来て義手を持ち帰り、それくらいの期間が経過しているはずだ。だからこそ、エドワードはこの店にやってきた。
「ここ良く分かったな。ちょっとわかりにくい場所にあるだろ。大佐に教わったのか?」
「うん。まぁ、そんなとこ」
曖昧に微笑む。実際は、どんなに尋ねてもロイは決して教えてくれなかった。知る必要ない、と何度言われたことだろう。
ジャンに義手を預けて二週間。そろそろ、何らかの連絡があるはずなのに、一切なにもなかった。だが、実際はエドワードの元に届かないだけで、彼は連絡をくれたのかもしれない。
そう疑ったのはロイがあからさまにエドワードを外に出したがらず、ジャンのことを聞こうとすると不機嫌になるからだ。ジャンから何か連絡があったのか、と聞くとなにも知らない、とか、もう少し待ちたまえ、とか、ひどいときは答えずにそのまま押し倒されて、その問いに対して返答すらもらえない。
ロイが答えない以上、エドワード自身でジャンに尋ねるしかない。もし、彼の師匠が義手を直せないなら直せないでまた別の手を考えた方が良い。父親が作れたくらいなのだから、独自に研究すれば自分にも作れるかもしれない。
元の世界に戻るための研究を今までは優先してきたが、手足がなくては不便この上ない。少しくらいは回り道も必要なのかもしれなかった。
そうして、ジャンへの連絡方法は、と言えば直接店を見つけて尋ねるのが一番早い、という結論が出た。
なにしろ屋敷には電話があるが、店の電話番号を自分は知らなかった。
ロイに尋ねても答えないのは明らかだったし、電話番号を記してあるとしても、どこに書いてあるのか見当もつかない。ジャンの元へとロイが電話したときはメモなど見ていなかった。
一方、エドワードが知っている電話番号といえば父親関係だけで、これはどこにかけても無駄だった。現時点で父親は消息不明の有様だ。父親の知人に義手を直せそうな人間はいないから、父の居場所を知らない以上、それ以上の問いは無意味でしかない。
父親については消息不明と言っても、特に心配はしていない。ぼんやりしたところはあるが、相当したたかでもある。だからとりあえず、まだ当分彼は生きているだろう。
それはともかく、そんなわけで電話は使えず、だからエドワードは直接ジャンの勤める店に行くことに決めた。それが一番早いだろうと思ったし、無事到着できたのだから実際早かった。
ロイは当然、住所を教えてはくれなかったが、幸運なことにジャンの師匠は大層腕利きだったから存外早く店を探すことができた。
「あのさ。義手って今、どんな感じ?」
「なんだ。大将、大佐に聞いてないのか?」
案の定、ジャンはロイに連絡を入れていたらしい。ぷるぷると首を横に振って否定する。
「聞いてねぇ」
「直ったぜ。一応な」
「え、マジかよ?」
ぱっと顔を輝かせる。だが、次の台詞ですぐに強ばった表情に変わった。
「届けに行くって言ったんだけど、こっちに用があるからついでに寄るってんで、ついさっき来たから大佐に渡しておいた」
「……つい、さっき?」
その言葉に驚いて問い返す。思わず確認すると、あぁ、とジャンは頷いた。
「まだ、三十分もたってねぇんじゃねぇかな」
(失敗した……!)
最悪のタイミングだ。どうして自分はもっと早くに屋敷を出なかったのだろう。そうすれば、今頃、治ったという義手を入手できた可能性が高かったというのに。
「装着してみたら違和感とかあるかもしんねぇし、オレとしても直接様子見たかったんだけどさ。なんつーか、有無を言わさない雰囲気だったな」
「……」
自分の義手を受け取り、ロイはどうするつもりなのだろう。自分に素直に渡す気だというのなら、ジャンから連絡があった時点で知らせてくれても良いはずだ。けれど、自分はなにも聞いていない。
(まさか、壊したりしねぇだろうな)
わざわざジャンに依頼し、直した上で壊すなんて普通はしない。だが、その『普通』が通用するかはわからない。
「あいつが今、どこにいるか知らねぇ?」
その問いに、ジャンは首を傾げる。
「どこだろうなぁ。今日は仕事は午前中だけだって言ってたから、もしかしたら屋敷に戻ってるかもしれねぇぜ?」
「……そっか」
何もかもが初耳だった。勿論、彼には一々、エドワードに対して説明する義理などない。エドワードも、彼の仕事について深く聞いたことはなかった。知っているのは軍人をしている、ということと、それなりに忙しい、ということくらいだ。……そして、数少ない休日はここ最近、自分と過ごすためだけに使用されている、ということも、知ってはいるけれど。
「大佐から受け取って、もし調子悪かったらまた来てくれよ。調整してみっからさ。……まぁ、すんのは俺じゃなくて師匠だけどな」
純粋な好意の笑顔を向けられ、とりあえずこくりと頷いた。人付きのする笑みは、確かに客商売に向いているかもしれない。ジャンの笑顔はどこか、ほっとする。……それともそれは、自分があちらのジャンの面影を見る故なのだろうか。
「……うん。サンキュ」
そう言った瞬間、電話が鳴った。慌ててジャンが受話器を取り、話し始める。どうやら客からではなく、間違い電話らしい。この店の電話番号を告げ、一つ番号が違うみたいっすね、と相手に向かって言っている。
「じゃ、オレもう行くな。突然邪魔してごめん」
電話が終わったタイミングを見計らったところでそう言うと、ジャンは頭を軽くかいた。
「いや。それより、修理に時間かかって悪かったな。大佐には言ってあったけど、やっぱり不安だったろ?」
「直ったってだけで十分ありがたいし、感謝してる」
それは本音だった。ただ、今のままだとその直った義手を手にできるかどうか、わからないけれど。
「そう言われると持って帰った甲斐があったな」
嬉しそうに告げるジャンに、ふと思いついて尋ねた。
「あのさ。軍人になろう、って思ったこと、ある?」
「あるぜ。結構直前まで迷ってた。けど、それがどうかしたのか?」
「なんとなく、軍人に向いていそうだからさ」
ジャンはこちらの国では軍人ではないけれど、それはたまたま、ということらしい。もし彼が軍人だったなら、ますます自分はこの世界とあちらの世界を混同したのだろうか。
どこまでも似ていて、そして違う世界。だからこそ、間違えてはならない。混同してはならない。
――――そして、自分は帰る。元の場所に。
何度目かの決意を胸に、エドワードはジャンに別れを告げて店を後にして歩き出す。それだけが、今自分にできることだった。