Spiege lim Spiegel 








 やがて屋敷に到着すると、彼はエドワードを引きずるようにして歩かせ、扉をくぐる。使用人たちは一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに無表情に戻った。そして何事もなかったかのようにお帰りなさいませ、とロイに挨拶する。
(お帰りなさいませ、じゃねぇだろ……っ)
 自分たちを見ればロイがエドワードを無理矢理連れてきた、というのがありありと分かるはずだ。だが、彼女たちはそれらの事実を胸にしまっておくつもりらしい。使用人としてはそれが正解なのだろうが、人道的には大変問題があるような気がする。
 鷹揚に頷くと、ロイは再び歩き始めた。無論、エドワードも一緒だ。彼に従いたくはないが、下手に抵抗すると義足まで壊れる可能性がある。この屋敷でそんな状態になったら、本当に二度と出られなくなるかもしれない。それはあまり得策とは言えなかった。
 向かう先は予想通り、彼の寝室だった。この屋敷でエドワードが頻繁に訪れるのはこの部屋と、書斎ばかりだ。自分用にとベッドのある部屋を用意されたものの、ほとんど夜をその場所で過ごした事がない。
 やや乱暴気味にベッドへと放られる。慣れた衝撃に身を任せた。
「待っていなさい」
 短く言うと、彼は一度部屋を出て行く。がちゃりとドアに鍵を閉めた音が聞こえた。
(あの野郎、閉じ込めやがった)
 部屋に閉じ込められたのは初めての経験で、頭に血が上る。どうにか逃げ出してやろうか、と窓へと視線を向けたが、やめたほうが良いとすぐに結論が出た。片腕しかない上、壊れかけた義足では、外に出る事は可能でも逃げ切ることはできないだろう。すぐに捕まることは目に見えている。
(畜生)
 こんなところで、立ち止まっている場合ではないというのに。一刻も早く、彼の国へと戻るために自分は何かをしなければならない。未だ、それはあまり明確な形を示してはいないけれど。
 無意識に、左手で右肩を抱いた。何をすればいい。どうすればいい。考えなければならないのに、一向になにも浮かばなかった。
 けれど一つ、分かっていることがある。多分、自分は無意識にロイに甘えすぎていたのだろう。
 あの男にあまりにも酷似した存在。駄目だと思いつつ、彼の面影を探し続けた。必要な書物があるからとこの屋敷に通い、そして身体を重ねた。それは彼の望みでもあったが、全てエドワードが選んだ結果だ。
 本来なら、彼が自分に戻るなと、そう告げたときから、自分は彼とは二度と会わないべきだった。
 彼の望みを決して自分は叶えられない。その望みを知りながら、彼の屋敷に入り浸るべきではなかったのに。
 この屋敷の書物は確かに、エドワードにとって魅力的だった。これだけの量、質をそろえた場所などそうそうないだろう。だが、それでも。
 それでも、自分は来るべきではなかった。
 形だけの等価交換は確かに存在したけれど、自分と彼は決して相容れない。望むものの根底はあまりにも相対していた。自分の望みは帰ること。彼の望みは、自分が帰らず彼の元に留まること。
 ずっと、彼がそんなことを望むのは気まぐれなのだろうと思っていた。だが、今はそう言い切る自信がない。夜ごと求められ、睦言を囁かれた。あれは本当に、ただの戯れ言なのだろうか。真摯な響きすら存在する、その言葉の数々は。
(けど、あいつは女たらしだし)
 それは間違いがない。先ほども女性に話しかけられていた。女性は頬を染め、嬉しそうに彼に語りかけていた。顔は良く見えなかったけれど、きっとあの女性はロイに恋しているか、そこまでではないにしろ憧れ程度の気持ちは持っているはずだ。
 ロイにしても、今まで散々、色恋を楽しんで来ただろう。今更、自分なんかを本気で求めるとは思えない。自分よりもずっと美しく、聡明で相応しい女性を彼は選ぶことができるのだから当然だった。
「気まぐれなら、早くオレに飽きてくんねぇかな」
 ぼそりと天井を見上げ、呟く。彼の感情はきっと恋ではないはず。恋に似た、遊びのような感覚のはず。そんなことを、願うように思う。
 そして、早く自分に飽きてくれると良い。そうでなければ、自分まで錯覚をおこしそうになる。
 自分は、彼を。あちらの世界ではなく、こちらの世界の彼を愛しているのではないか、と。そんな、錯覚を。
 身体の力を抜き、ベッドに背を預ける。すでに馴染んだ感触が身体を包んだ。
 それから、三十分も経過した頃だろうか。鍵を外す音が聞こえ、それから扉が開いた。姿を見せたのは、無論ロイだ。
「エドワード」
珍しく、彼が直接名を呼んだ。だが、返事はせず、視線も送らない。自分が悪い、と思う一方で、それでも未だに彼の行動を腹立たしく思っているのだから当然だった。
「私を見なさい、エド」
 その言葉に目を閉じる。それはひどく、痛い言葉だった。罪悪を感じるには十分なほどに。
 分かっている。彼はあの男じゃない。
 分かっている。あの男は、ここにはいない。
「エド」
 もう一度、彼は自分を呼んだ。それでも尚、無視する。すると、彼がため息をついたのが分かった。
「義手は再度作ってやる。だからいい加減機嫌を直せ」
 まるで機嫌を取るように、そんな言葉を紡ぐ。だが、その言葉を素直に受け取ることはできなかった。
「……また作って、また捨てる気かよ」
 彼の言葉を、もう信用してはいけない。すぐにでも、この屋敷を出た方が良い。そして、彼とはもう、会わないべきだ。
 彼のためにも。
 自分のためにも。
「捨てれば、君は身投げくらいしそうだな」
「しねぇよ、そんなん。……わざわざ死ぬつもりはねぇっての」
 だから、先ほどの行動は確かに早計だった。それは認めよう。だが、それは彼が義手を川に落としたが故のことだ。
「なら、良いが。とりあえず、捨てないことは神に誓っても良い」
「あんたが神様を信じてるなんて、初めて知ったよ」
 エドワードは神を信じない。信じるべき、神などいない。母がこの世を去ったとき、そんな存在はいないのだと知った。
「信じているとも。ただ、役立たずなだけだ」
 信心深い人間が聞いたら卒倒しそうな言葉を紡ぎながら、ロイはエドワードの元へと歩み寄る。その気配に気付いて半身を起こし、ベッドの上で無意識に後ずさった。
「……寄るな」
「それは無理だ。私は君に触れたい」
「もう、あんたとは寝ない」
 それは初めて彼と身体を重ねた後にも言った台詞だった。あの時、自分は本気でそう思ったはずだったのに。
「その言葉を、私が承諾するとでも?」
「あんたは、まるでオモチャが欲しくて癇癪をおこす子どもだ」
「ならば、私を子どもにしたのは君だよ、エドワード」
 彼は微笑んだ。あまりにも、彼と同じその表情。
「欲しいものを欲しいと言って、何が悪い。手を伸ばして何が悪い。欲しいから手に入れる。当然の事だろう?」
 だが、どんなに彼が欲しがっても自分は自分を与えることができない。身体だけならともかく、自分の全ては与えられない。
「君が必要だと言うから、義手も直した。……だが、直れば君はここを去るだろう。だから捨てた」
 ロイにしてみれば、自分の思い通りに行動した結果に過ぎない。傲慢な彼らしい言葉だった。
「しかし、あんなにも決死で君が腕を求めるのなら、腕は返そう。まさか迷わず飛び込もうとするとは、さすがに思わなかった」
 迷う必要など、あの瞬間のエドワードにはなかった。それは短慮だったのだろう。けれど、それでも自分はあの腕が必要だった。
「君は、どうすれば手に入るのかな」
 その問いに首を横に振る。答えはいつでも、決まっている。
「それは、無理だ」
「だが、私は君が欲しい」
「それでも、無理だ。……オレは、帰る。帰りたい」
 彼が気まぐれであれ、真剣であれ。その答えは変わらない。永遠に。
「交渉決裂だな。では、私は力づくで君を引き留め続けるよ」 
交渉では最初からなかった。それは一方通行だと、会話する前から彼も知っていたはずだ。
 腕を作る、という言葉はおそらく真実だろう。予測に過ぎないが、ジャンあたりに電話をしていたに違いない。修理ができた人間がいるのなら、新たに同じものを作成することも不可能ではないはずだ。
 けれど、その行動はロイにとってエドワードを元の世界に戻すための行為ではない。もっと単純な、例えるなら恋人にプレゼントを渡す、その程度の感覚なのだろう。あまりにもエドワードが必死に求めるから、渡す気になった。だが、彼はエドワードのこの世界から逃す気など毛頭無い。それは今までの会話から考えても確かだった。
「引き留めても無駄だ。……あんたは、もっと他の、あんたに相応しい人を探した方が良い」
 言うと、ロイは笑う。小馬鹿にしたように。
「それを、君が言うのか」
 くすくすと、ひどく滑稽そうに。
「他の人間では、例え酷似していても駄目だということを誰よりも知っている君が言うのか」
「……っ」
 その台詞に言葉が詰まった。どんなに似ていても、駄目だった。彼でなければ駄目だった。だが、ロイもまた、自分でなければならないのだ、と告げる。
「渡さない。返さない。君は、私のものだ」
 ぎしり。彼がベッドに乗る。どうするつもりなのか、聞くまでもない。後ずさろうとして失敗した。もう、背には壁があるばかりだ。
「嫌だ」
 自分の意志など、ロイには関係ないだろう。そんなことは良く知っている。それでも告げずにはいられなかった。
「最初から乗り気だったことは今までも一度もなかったな。だが、君の身体は快楽に弱い。君の『大佐』より、余程私は君の身体を熟知しているよ」
 身に覚えがありすぎる台詞に、頬が朱に染まる。ロイの言うとおり、それこそ自分の意志に関係なく、いつでも身体は反応した。彼の方が、自分の身体を熟知していることも確かだ。――――当たり前だ。『大佐』と。あの男と身体を重ねたのは三度だけなのだから。
 一度目は彼に組み伏せられ、強引に事を運ばれた。二度目はエドワードから誘った。三度目は、自然の流れ、としか言いようがなかった。
「それでも、オレはあんたのものにはなれない」
 身体は確かに与えることができる。自分は彼に抱かれ、快楽を感じる。それは確かすぎる事実だ。だが、それはイコール彼のものになる、という意味にはならないだろう。自分は彼だけを見ることはできない。
「いくら君が賢くても、この先のことなど誰もわかりはしないよ。君が私に恋する可能性もゼロじゃない」
 彼の掌が頬に触れた。優しく撫でられ、彼は微笑み続ける。いかにも自信ありげに。
「オレが、あんたを?」
 小さく笑った。確かに、そんな錯覚を覚えそうになると先ほども思った。けれど。
 例え彼に恋をしたとしても、それでも自分は元の世界に戻ることを望むだろう。
 もっとも、アルフォンスの無事を確認できたなら。彼の幸福を確認できたなら、あるいはここで生きる、そんな選択をする可能性もあるのかもしれない。
 そんな風に考える自分が少し怖いと思った。自分は、どこかですでに戻れない可能性ばかり考えているのではないだろうか。その逃げ道として、この男を選ぼうとはしていないだろうか。
「少なくとも、君が元の世界に戻れなければ、可能性は高くなるだろう?」
 囁かれ、彼の唇が首筋に触れた。それだけで、身体は反応する。
「……っ、それでも、オレは、帰る」
 まるで自分に確認するように呟く。その言葉を、一体何度自分は繰り返しているだろう。どれだけ切実に思っているだろう。
「かえさない」
 彼も、同じ言葉を繰り返す。彼もまた、そう本気で思っているのだろう。ぐい、と顎を持ち上げられ、唇を開かされた。
 当然のように重なる唇。一瞬躊躇ったが、強く彼の唇を噛んだ。
「ん、……っ」
 だが、ロイに怯む様子はなく、そのまま舌が口腔へと入り込む。彼の血の味が広がった。ロイの身体を押しのけようと左手を動かしたが、難なくベッドへと押さえ付けられる。
「その程度の抵抗で、私がやめるとでも?」
 やがて唇が離れ、彼がそう言葉を紡ぐ。迷いのない笑顔。どんなに冷静に考えても、今の自分が逃れられる可能性などなかった。
「……嫌だって、言ってる」
 声が震えた。それは彼を喜ばすだけだろう。それは分かっている。
 彼はまた、笑った。そして厳かとすら言える口調で言った。

「早く、諦めると良い」