空の在処 1
白い、小さな部屋だった。
細い、細い腕を伸ばし、彼女は自分に触れた。
「…かずえは、本当に…果報者でございます」
その声は、切なくなるほどに小さい。それでも、懸命に絞り出すように、彼女は更に言葉を重ねた。
「思い残すことは、何もございません」
ひどく不吉な言葉を、けれど淡々と。ひどく穏やかに。
燎一にとって母であり、祖母であり、そしてどこまでも使用人であった人は言う。
日に日に、彼女は小さくなっていった。もともと小さかった彼女は、今、見つめることすら放棄したいほど、衰弱している。
―――無論、覚悟をしていなかったと言えば嘘になる。いつか、この日が来ることを自分だって分かっていた。…怖くて、だから考えたことなんてなかったけれど。
年齢も老齢、と言って全く差し支えがない。身体も特別丈夫だったわけでもない。実際問題、何度も入退院を繰り返していた。
…だから、この病室に移った時点で、気が付きたくなかったけれど、ぼんやりと分かっていた事実だった。
――――――彼女の命は、もうすぐ燃え尽きようとしている。
その、残酷で、確かな現実だけが燎一に存在していた。
「本当に幸せでございました。…ですが、燎一坊っちゃまに、一つだけ…お願いがございます」
「…何だ?」
彼女の瞳を見てしまったら、言葉を促すしかできなくなった。本当は、聞きたくなどなかった。まるで遺言のような物言いの台詞など。
どうか、と彼女の唇が動く。
「どうか、お幸せにおなり下さい。…それだけが、かずえの願いでございます」
―――どうか、誰よりも。誰よりも幸せに。
―――燎一坊っちゃまの幸せだけが、かずえの願いでございます。
そんな、言葉にならない言葉が聞こえた。
ただ、ひたすらに慈愛の笑みを浮かべながら。
――――――自分を置いていく、彼女が。
彼女は死を受け入れている。自分のために死ぬなと、そう言いたかった。けれど、言えば彼女は悲しそうな顔をして、そして自分を窘めようとするだろう。
幼い日に、自分がした悪戯を、困ったように微笑みながら諭した時のように。
「……」
だから、できることは沈黙だけだった。一言、当たり前だ、と。
そう言えば、彼女は安心するに違いない。けれど、言えるはずがなかった。
答えてしまったら、彼女はすぐにでもいなくなってしまうのではないか。そんな不安に苛まれたからだ。
答えない燎一に気を悪くした様子もなく、彼女は視線を部屋の窓へと移した。
この部屋からは、外界のうるさい蝉の鳴き声さえ閉ざされている。だから聴覚的には何もなく、ただ視覚だけが夏を告げていた。
「綺麗な空でございますね。あんなに空が青くて、雲が白くて」
「…そうだな。今度、涼しい日に車椅子ででも散歩に連れて行ってやる」
だから早く元気になれと、そんな言葉を隠しながら言うと、彼女は嬉しそうに微笑み、小さく頷いた。
――――――けれど。
彼女は穏やかに、ひっそりと。
その日のうちに、涅槃へと旅だったのだった。
どこまでも穏やかに。
幸せそうに、微笑みを浮かべながら。
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