夢 鏡
3
その日の夜、不思議な夢を見た。
暗闇の世界に、自分が二人いる。それから、暗闇なのに見覚えのある大きな扉が見えた。
あの扉はなんだろう、と思う。それは奇妙な既視感を呼んだが、それよりも更にアルフォンスが気になったのはもう一人の自分の存在だった。
最初は鏡かと思うほど、その人は自分と酷似している。
相手もそう思ったのだろう。首を傾げ、手を伸ばしてきた。自分は反対に、その姿をぼんやりと見つめていた。
(あぁ、なんだ)
ただ、そう思う。訳が分からないはずなのに、夢の中の自分は納得してた。
(ボクが、二人いるのは当然じゃないか)
それこそ、鏡に向かい合っているかのような、その姿は間違いなく自分のものだ。だが、それも当然ではないか。だって、自分達は二人いるのだと昼間、エドワードから聞いたばかりだ。
ここは夢の世界。いわば精神世界だ。二人の自分が邂逅しても不思議ではないし、何があっても当たり前なのだろう。例えば、自分には目の前に存在するもう一人の自分は同い年の少年に見えるけれど、もしかしたら彼からは彼と同い年の姿に見えるかも知れない。夢だから、確かな形などなくても不可思議に思う必要などないのだ。
「初めまして」
「…初めまして」
くすりと笑って告げると、相手も事態を飲み込んだらしい。同じように微笑んでそう返した。
なるほど、目の前にいるのは確かに自分だ。まったく同じ、けれど自分とは違う存在。
「君は、良いね」
自分に嘘をついても仕方がないから、素直にそう告げた。本当に、彼が羨ましいとアルフォンスは思う。
こちらの世界には、エドワードがいる。それだけで、アルフォンスにとっては羨むには十分な理由になる。
―――否。羨む理由は、もう一つあった。
自分たちはこれほどまでに同じなのに、それでも決定的違いがあることをエドワードに聞いて知っていた。その事実が、どうしようもなくアルフォンスは妬ましく、羨ましい。
「ボクは君が羨ましいよ」
けれど、彼もそう言った。
「……そうだろうね」
わかる気がするよ、と笑みの形に唇を曲げる。自分たちの決定的な違い。その部分を、彼は逆に羨んでいるのだろう。自分たちは自分たちにない部分を互いに羨んでいる。まさに無い物ねだりだった。
「エドと兄弟って、どんな気分?」
問われて、苦笑する。やっぱり、とだけ思った。
自分たちの決定的な差。それは自分とエドワードは兄弟だけれど、こちらの世界ではエドワードとアルフォンスは兄弟ではない、という事実だ。もしかしたら、調べたら遠縁くらいではあるかもしれないけれど。
「幸福ですごく不幸な気分、かな」
大好きな兄。だから、彼の弟であることが誇らしい。彼と兄弟で良かったと、そう心から思う。弟だからこそ、自分はエドワードにとって大事な存在であったのだから。
けれど、一方で兄弟だからこそ感じるジレンマがある。どこまでもエドワードが自分を弟としか見てくれないと言う、そんな当たり前の事実が壁になる。
「兄さんと他人って、どんな気分?」
今度は自分が問うと、相手は苦笑した。
「同じだよ。すごく幸福で、不幸な気分になる。エドは本当に、君が大事なんだね」
言って、彼はエドワードと出会ってからのことを話し出す。出会いは偶然であったこと。自分は完全に初対面であったこと。エドワードがひどく驚いていたことを。
「彼は旅する途中だったけど、義足の調子が悪くて。…それで少しの間だけ、一緒に住もうって言ったんだ」
こちらの世界の技術はすばらしいが、機械鎧に関してはあちらの世界の方が上だったらしい。それはエドワードの歩き方がぎこちないことからも予想できることだった。
「最初は遠慮してたけど、ボクは君に似てたから。すごく渋々、頷いてくれたよ」
エドワードは自分には甘いところがある。同じ顔をした人間に乞われれば、確かに頷きもするだろう。更に言うなら、こちらの世界のアルフォンスには家族はいないという。
母は生まれてすぐに。父は戦争で亡くなった。兄弟はいない。自分と同じ姿形、そして魂をしていても、生い立ちは大分違ったということをエドワードからも聞いていた。
そんな彼に対して、エドワードが何の情も持たないことは難しかったに違いない。
「逢ってすぐに、同居を申し出たんだ?」
確認するように尋ねると、迷わずにこくりと頷く。
「君は、兄さんと初対面だったのに?」
そんな人間と、どうして同居をと更に尋ねると、彼はまた笑った。何故問うのかと言いたげに。
「…過ごした時間で全てが決まる訳じゃないよ」
その返答に、やはりこれは自分だと必要のない再認識を重ねた。
「そうだね。そうかもしれない。ボクが君だったら、やっぱりボクは同じ事をしただろうから」
何も知らなくても。初対面でも。それでも、エドワードに出逢ってしまったら。そうしたら、何をしてでも彼を引き留めようとしただろう。彼の義足が調子が悪いというのなら、いっそ好都合と思ったに違いない。
少しでも彼と共にありたいと。彼と一緒に過ごしたいと、そう思うのはあまりにも当然だった。
「君は、兄さんに恋したんだね」
「君も、エドに恋したんだね」
それは同時に発された言葉だった。互いに顔を見合わせ、苦笑する。考えることは同じかと笑うしかなかった。
(世界が違っても、やっぱり好みは同じなんだ)
アルフォンスにとって、エドワードは兄だ。その事実は変わらない。けれど、単純に血の繋がりがあるだけの存在では決してない。
そのことに気付いたのはエドワードが自分の側からいなくなってからだ。今まで、当たり前に自分の側にいてくれたあの人がいなくなったから。
最初は単純に、家族がいなくなったことが寂しいのかと思った。けれど、父がいなくなった時も。母が死んだときも、こんなにも喪失感で心が痛んだことなどなかった。
何故だろう、と思う間もなかった。ただ、そうか、とだけ思った。
自分はエドワードに。実の兄に、恋しているのだと。だからこそ、自分はこんなにも逢いたかったのだ、と。
その事実を悟り、そして受け入れた。そんなはずがないと、そう疑うことも馬鹿馬鹿しい程、自分は自分に正直だったから。
そうして一方で、こちらの世界の自分もエドワードに恋したのだ。それはやはり、当然のことだったのだろう。エドワードでエドワードであり、自分が自分である限りは。
「君が羨ましかったよ。エドは、いつもボクを通して君を見ていたから」
エドワードにとって、アルフォンスがどうなったのか、そのことがひたすらに気がかりだった。こちらの世界のアルフォンスの姿を見れば見る程、思い出さずにはいられないのも無理ないことだ。
「すごく悔しかった」
「…でも、ボクは君が羨ましい」
だって彼は、ずっとエドワードの側にいられたのだ。それも、『弟』ではなく。…無論、彼にしてみれば自分の身代わり的な感覚はあったに違いないけれど。
もしかしたら、とアルフォンスは思う。
自分はエドワードに逢いたかった。彼は、エドワードの一番気にする相手に。……『弟であるアルフォンス』になりたかった。
それは結果的に、無意識ながらも互いが互いを羨んだことになるはずだ。
彼はこの世界で、エドワードと二人で暮らしていた。
自分は、エドワードの最愛の弟としてエドワードの心に常に存在してた。だから。
……だから、互いが互いを呼び合い、そして一つの肉体に入り込んでしまったのかも知れない。
偶然かも知れない。関係ないのかも知れない。真実はわからない。
あまりにも切実に、同時に二人願い、そして叶えられた。そんな都合の良いことなど、現実になるとは確かに思えない。
けれど、そんな可能性もゼロとは言えない。
「あの人が、欲しいんだ」
ぽつりと呟く。それは自分の声か。それとも、相手の声か。同時だったのかも知れない。
別個に存在していても、自分は自分だ。考えることは同じ。望むものも、同じ。
あの人が。―――エドワードが、欲しい。
肉体的にも精神的にも。全てが欲しい。自分だけのものにしたい。彼だけが、欲しい。
再会できたからこそ、尚更そう思う。逢えたことが嬉しかった。けれど、それだけではなかった。
存在したのは、強烈なまでの飢餓感だ。逢いたかった。抱きしめたかった。だから、逢えた彼を抱きしめた。
そして、――――――それだけでは満足はできない自分を知った。
恋という感情を、もっとあやふやに自分は捉えていたけれど、それは間違いだったらしい。今はこんなにも明確だ。彼が欲しい。手に入れたい。抱きしめるだけじゃ、足りない。
今の自分は危険だ。そんな自覚もある。
もう自分は、単なるエドワードの弟ではいられない。
微笑む彼を見て、自分もただ微笑み返すことなどできない。手を伸ばし、彼を手に入れようとするだろう。それが彼を傷つけ、泣かせることになるとしても。それでも。
それでも、彼を手に入れる為なら躊躇わない。
自分が二人いる分、望みも自分勝手さも肥大したのかな、などと考えて自嘲する。
何をどう解釈したところで、自分が望んでいることの実情は何も変わりはしない。
そして反省ももう、白々しすぎてできない。
「ところで、あの扉は何かな?」
考えても無駄、と結論づけて他の話題を口にすると、もう一人の自分はさぁ、と首を傾げた。
「わからない」
「見たことある気がするんだ」
けれど、どこで見たのかが思い出せない。あの扉を、確かに見た気がするのに。
いくら考えても思い出せず、首を傾げるばかりだ。だが、そのうちまぁ良いか、と考えることを放棄する。もしかしたら不意に思い出すかも知れない。そんなことを考えているとタイミング良く、もう一人の自分が口を開いた。
「それより、そっちの世界のエドのこと聞きたいな」
その言葉に、ボクも、と返す。
「こちらの世界に来てからの兄さんのこと、聞きたいな」
そうして暗闇の中、謎の扉の存在も忘れて話し続ける。
それは本当に奇妙で、そして滑稽な夢だった。
